2015年のサービス提供から、驚異的なスピードでARR100億円を達成し、今なお勢いが止まらないSmartHR。直面するハードシングスはスタートアップによって異なりますが、どの企業も共通してぶつかるとされるのが、俗に言う「組織の壁」でしょう。
では、SmartHRはどのように、乗り越えてきたのか。
今回は、2人のゲストのディスカッションから紐解いていきます。1人目は、社員数60人から800人規模まで、人事責任者として成長・組織戦略をリードしてきた、同社執行役員・VP of Human Resourceである薮田孝仁さん。そしてもう1人が、薮田さんを外部から支え、同社のシード期から人事コンサルタントとして組織づくりをサポートしてきた、株式会社インプリメンティクスの金田宏之さん。
SmartHRの事例を踏まえながら、SaaSスタートアップが各フェーズで落とし穴に陥らないための対策や心構え、人事体制の構築のポイントを解説します。モデレーターはALL STAR SAAS FUND Partnerの神前達哉です。
最初は全員の声を聞くこと。「50〜100人」で評価・報酬制度に注力
神前:私たちも様々なSaaS企業へ投資して、成長のサポートをさせていただく中で、人事への先行投資が不可欠であることを感じています。特にARRが10〜20億円のフェーズでは、組織の成長が事業成長に追いつくことが重要。月に5人から10人の採用を行ない、彼らを即戦力にすることで、事業は大きく推進します。こういった組織デザインと基盤の整備がポイントになってくる中で、今日はSmartHRの実例を踏まえて学ばせてください。
薮田:現在のSmartHRは約900名の規模です。2018年と2019年に急成長していますが、新卒採用を行なわず、中途採用のみでこの数に達したことが特徴といえます。今日は社員数のフェーズごとの経験について詳しく話したいと思います。
金田:僕とSmartHRとの関わりは2016年7月からはじまり、ちょうど7年間ほどという長い期間にわたります。この間に多くのことを共に経験してきましたよね。
薮田:まずは、初期の「50〜100人の壁」ですが、私が関わりはじめた時期は社員数50人程度でした。通常、人事は多くの業務に対応する必要があります。採用、評価、育成、配置、適用、報酬、労働環境、労務、ワークデザイン、総務など、多岐にわたる課題の中でどこにフォーカスすべきかを特定する必要がありました。
最初に行なったのは、全員の声を聞くこと。主に3タイプの声を集めました。1つ目は「社員の声」です。50人の社員全員と1on1で会ったり、アンケートを取ったりして、会社に対する意見を集めました。
2つ目は「株主の声」です。それこそ、ALL STAR SAAS FUNDの前田ヒロさんにもお話を伺いました。株主から見た課題や今後取り得る対策といった観点から聞いて、何をすべきかを考えていきました。3つ目は「パートナーの声」です。金田さんのようなパートナーから見える課題と対策をヒアリングしました。
あと、このタイミングで行なったこととして、株主やパートナーから声を集める中で「キーマンは誰になるか」を聞いておいたのは大きかったですね。裏話的になりますが、全員が口を揃えて、SmartHRの現CEOである芹澤(雅人)を挙げていました。
当時はまだCEOになることは決まっていませんでしたが、芹澤は組織作りに長けていたので、「この人の声をベースに施策を考えていくと成功に近づくのかな」と。そう思っていたら、社長になっていました(笑)。
神前:「キーマンの設定」は良い学びですね。
薮田:あとは、50人から100人のフェーズでは、採用と選考プロセス、評価・報酬制度に重点を置きました。金田さんと共に評価と報酬の体系化を進めていきましたが、中途採用が多いため、即戦力としての適応を重視しましたね。中途入社組が早期に適用できるようにするのは、先に来る『300人の壁』を見越して、まず注力していたことでもありました。
金田:そうですね。人事制度はちょうど100人規模になるまでに4回は改善していましたし、50人の段階でも2回は検証できていたと思います。
1ヶ月で廃止した制度も。議論を尽くして「変えた」経験は財産に
神前:SmartHRの評価・報酬制度が早い段階で整備されていたのは特筆すべき点です。レベル間評価や等級制度など、このフェーズで構築するのは珍しいですね。
金田:正直に話すと、様々な失敗もしてきているんです。例えば、エンジニア向けの「技術手当」の導入は全くうまくいかなかった。エンジニアと一緒につくったのですが、納得感が得られず、経営メンバーと共に試行錯誤しました(最終的に技術手当は廃止)。「セールスインセンティブ」の導入も試みましたが、売り込みが先走りしてしまって、すぐやめることに。目標設定でも当初はMBOで設計しましたが失敗。報酬レンジも保守的だったかもしれません。SmartHR社のファウンダーである宮田昇始さんの発案で給料を引き上げる方向へ転換しました。
100人までの組織を作る過程で、失敗を重ねながら学んでいったのが実情です。毎週の打ち合わせで常に改善し続けたことが、今の組織を支えています。通常は人事制度を簡単には変えられないものですが、試してダメなら議論を尽くしてすぐ変える。その変えられる姿勢はSmartHRの強みかなと思います。
薮田:100人未満の時期だからこそ、制度は変更しやすかったともいえます。早い段階で制度にチャレンジすることの重要性を感じました。例えば、セールスインセンティブは1ヶ月で終了しましたが、チームワークを損ねると判断し、「会社の成長にならない」と説明を尽くした結果としてやめることにした。そういった経験は貴重です。
制度の導入は、説明し、評価して、結果を見るまでに半年から1年ほどかかるものですよね。だからこそ、回数を重ねる意味でも早めに導入して試すことをお勧めします。
変更は積極的でも「不可逆性」は常に配慮する
神前:失敗談を明かしてくれて、ありがとうございます。では、100人規模の組織構築において、成功体験だと感じたことは?
薮田:制度を変えることへの柔軟性が重要でした。「変えてもいい」という意識が浸透しましたね。働き方の制度においても「これはトライアルです、この制度の賞味期限はおおよそこれくらいの時期を見込んでいます」と調整ができるアプローチを取りました。リモートワークへの対応も含め、従業員と期待値を合わせることができました。
金田:言わば、制度の変更はプロダクト開発とも似ています。まずはユーザーの声を聞き、それに基づいて自らの頭で考え、改善を繰り返す。良ければ続けて、悪ければすぐにやめる。どこかに改善ポイントが必ずあるので、他人任せにせず、コツコツと積み重ねていくんです。
薮田:変更できることは大切なのですが、一方で、「不可逆かどうか」は常に考慮する必要もあります。特に、報酬水準を一度上げると、日本の場合は下げづらいですからね。
金田:報酬に関しては、法律や個人の関係性が絡むため、僕としては保守的に進めてきたつもりです。ただ、ここは経営層の考えも反映されるポイントです。給料を積極的に高めていきたい意向があるならば、それに合わせた制度設計を考えていくこともできる。良し悪しではなく、経営スタイルの一つとして捉えて、向き合うことも大切。まさに、初期のSmartHRは積極的な上昇を打ち出して、成長エンジンにしていた動きもありましたね。
「ググってもわからないこと」のインストール進捗を細かく確かめる
神前:報酬制度、等級、評価について、50人から100人の成長段階では、どのように対応していましたか?
金田:100人になるまでは「きちんとヒトを評価したい」という意識が強かったこともあり、評価制度の設計にかなり力を入れていました。ただ、組織成長の過程ではシンプルな制度へと削っていく方針をとりました。ミッション設定とバリュー評価を中心に据え、徐々にシャープになってきましたね。
神前:急激な人員増加のフェーズで、オンボーディングで注目されたことは?
薮田:オンボーディングは重要です。私が入社した2018年当時は、マニュアルやプロセスがなく、戸惑ったものです。社用PCとしてMacを渡されて説明がはじまるけれど、当時の僕はMacを使ったことがなくて、操作から置いてけぼりになってしまったり。
要は、中途入社が多いと「みんな中途入社なら経験があるだろう」と考えがちなんですよね。でも、会社によって作法や文化はぜんぜん違うもの。そこで、まずは社内の文化や手順を理解するためのオンボーディングプログラムを作りました。初日から自己紹介、期待値合わせ、社長や各組織からのオリエンテーション、社内システムの設定などを計画的に行ないました。SmartHRの新しい従業員として、同じスタートラインに立てるようにするためです。
平たく言うと、初日、1週間、1ヶ月のプロセスごとに設計し、適応の進捗を1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月目に人事が定期面談して確認していました。特に初期段階は大事に考えます。もし、うまく立ち上がっていなかったら、「その状況は誰かに相談できていますか?」とケアする。だいたい300人規模になるまでは、全員に面談していましたね。
本当に、初日から1週間は大事で、会社に対する印象って初期で大きく印象付きます。新入社員が直面する細かな不安や疑問って、色々あるじゃないですか。実際にSmartHRであった声ではないですが、「前職はお昼を知らせるチャイムがあったけれど、SmartHRは鳴らないな。ランチはいつ取ればいいのだろう……」とか。そういった社内の習慣も含めて、ケアしてあげることが案外重要なんです。
「300人の壁」と「1,000人の壁」が、ほとんど同時に起きた
神前:300人から500人規模へ成長する際、どのような取り組みが肝心でしたか?
薮田:スケールする採用体制を作ることです。採用担当者の増員だけでなく、採用管理システムを効率良く運用できるようにしました。さらに、辞退率や母集団形成などの数字をきちんと管理し、体制を整えました。目標設定も重要で、個々の業務のミスを減らし、応募から内定までのリードタイムをとにかく短縮することを目指しました。
神前:採用担当者の人数は、どのような割合で配置されていたのですか?
薮田:「年間20名の採用に対して、1名の採用担当者を配置する」というのが基準でした。これを超えると負担が大きくなると考えていました。基本的には「採用したい人数の10分の1」という割合が目安になりますね。ただ、現在はもう少し1人あたりで受け持っても管理できるかな、とは感じています。
SmartHRでは2020年から2022年にかけて、年間におおよそ200名ずつ増えていきました。この時期は、一般的な「グレイナーの5段階企業成長モデル」に沿って、課題も起きていったように思います。300人の壁では「自主性の危機」があり、マネジメント層の兼務が増えはじめ、仕事を抱え込んでしまい、権限委譲が鍵になりました。一般的に1,000人の壁では「組織のコントロール」が課題となり、権限委譲だけでなく統制部門を設けて全社的に取り仕切る仕組みも必要になると言われています。
SmartHRが特殊だったのは、2年間で一気に成長したがゆえに、この300人の壁と1,000人の壁が、ほとんど同時に起きたことでした。わかりやすい権限委譲の例で言うと、創業者の宮田さんが社長交代しました。宮田さんは「自分で抱えずに適任者に任せよう」という姿勢があったので、全社的に変わる風土、権限委譲の風土は作りやすかった方だと思います。私も2023年末で退任を決めましたが、後押しになっていると思います。
神前:2020年から2022年となるとコロナ禍も重なりますね。
薮田:確かに、急成長期とコロナ禍が掛け合わさった変化も大きな要因でした。リモートワークの推進とマネジメントのあり方の変化が求められました。通常、1人のマネージャーが7~8名を管理するのが理想的とされます。ただ、職種にもよるところはあるのですが、リモートワークでは3~5名の管理へ減らすことが適切と考えました。
さらに、1,000人規模を見越して、引き続き採用に注力し、評価報酬システムをそれに合わせて適切に決める必要がありました。リモートワークのデザインと環境のブラッシュアップも、この時期の重要な取り組みでした。総じてこの時期は「人員の増加と権限委譲」「マネジメントの適切な調整」「コロナ対策による働き方の変化」に注力して駆け抜けました。
金田: 正直、300人の壁って、僕の中ではあまり感じないほどに成長スピードが早かったです。成長に合わせて制度を変えていき、組織カルチャーを作っていくこと。目先でやるべきことに手一杯だったな、とは思っています。
今、振り返ってみると、この時期にやっておけばよかったのは、優秀なハイレイヤーの人材をとにかく引き上げること。現場の人たちが優秀なので自律的にやっていただく方針で任せていたのですが、やはり会社としてもっと引き上げに動くことはできたなと。現在のSmartHRでこの動きが進んでいます。この段階から取り組めればよかったと、僕の反省ですね。
カルチャーの「濃さ」を維持するための判断
神前:権限委譲を進める上では、ミドルマネジメントの構築が重要だと思いますが、SmartHRではどのように進めましたか?
薮田:僕らとしては「パラシュート人事」(※中途採用社員を経営人材としてすぐに登用すること)は全くやってきませんでした。カルチャーを大切にしている会社なので、まずは現場経験を積んだり、役職に就くとしても係長くらいからはじめたりして、カルチャーに適応しているかを見ていました。
ミドルマネージャーはチームの文化を作る存在です。だからこそ、カルチャーが変わってしまうのを避けたいと考えていました。しかし、今は過去のカルチャー自体も進化する必要があると考え、パラシュート人事も含めてチャレンジを考えています。
金田:パラシュート人事の推進もそうですし、カルチャーの維持と組織の変化については喧々諤々と議論されているのを見てきました。僕が外部の立場から様々な企業を見た中でもSmartHRのカルチャーは濃厚です。実行と成果に対する厳しさがあり、成長意欲がなければやっていけない環境でもあります。顧客満足を追求する姿勢も強固ですからね。
神前:「カルチャーが濃厚」という点について、ぜひ具体的なエピソードがあれば教えてください。
金田:50人から100人規模の時、全社員と1on1ミーティングをしました。すると、メンバーからは「内輪感が強い」と思えるところもある、という声があがったんです。自分たちを変えるべきか、という議論も起きましたが、最終的には自分たちのカルチャーを「変えたくない」という強い意志がありました。それは「SmartHRらしさ」を失うことになりかねないし、ひいては組織の強みも失われるだろうと。
カルチャーに合わない人は退職するかもしれないという厳しい現実でもありますが、カルチャーマッチにおける重要な部分だとも思います。筋を通して、社員に説明を重ねていくことをSmartHRは続けていましたね。
薮田:そうですね。「カルチャーの一般化」か「濃いカルチャーを残すか」は大事な判断です。ヒアリング時に出てくる社内だけの流行り言葉など、新しい人にはわかりにくいものもあります。例えば、僕らには「カニ」という言葉があって、これは「確かに」を省略してよく使われていたんです。
神前:新しい人からすれば、「え、カニって何?」となりますよね(笑)。
薮田:新しい人にはわかりにくいですから、「カニ」は「確かに」へ改めよう、と実際に議論したこともあったんです。でも、結局は「カニ」は維持しました。最初は戸惑っていた社員も、1ヶ月も経つと「家でも自然と使っていた」という話も聞きましたし、馴染むものかと思います。文化の濃さは作ろうと思って作れるものではないので、作れないものほど残すべきだと思います。
社員1,000人&ARR100億円を飛び越えるための仕込み
神前:さらに1,000人を見据えて、現在はどのような試行錯誤をされていますか?
薮田:採用には引き続き投資しています。採用にかかる費用の基準として、1人当たり200万円を目安にしています。これにはエージェント費用や媒体費用などが含まれます。200万円を超えなければ掛け過ぎではないと捉えています。
報酬と評価制度にも引き続き取り組んでいますが、特に重要なのが育成と配置です。将来のリーダーの育成や採用が重要な経営課題ですね。2026年からは新卒採用も開始予定です。
人数の拡大に伴い、マネジメント層の質にばらつきが生まれることもあります。そこでSmartHRのマネジメント方法を統一し、基準を揃えることも必要でしょう。フェーズごとに制度も変わっていく必要があるため、求められることの変化に対応していきます。
制度がハード面だとすれば、それを使う人の育成であるソフト面もより大切です。ツールはどれでも良いので、この両面を意識して施策を行ない、組織を変えていくことは今後も重視したいですね。
神前:そういった変化に対応する組織に向けて、どのような準備が必要だと思いますか。
金田:変化に対応できる組織の鍵は「ヒト」です。私が見てきたSmartHRは、優秀な人材が揃っていることが最大の強み。1,000人規模になるためには、100人の組織時にはすでに将来のリーダークラスを10人ほど揃えておくことが大切です。組織の成長に影響を与える目安だと思っていただくといいでしょう。僕は経営者の仕事は採用だと考えています。仲間を集め、組織を成長させることにぜひ注力していただき、社員1,000人とARR100億円を飛び越えていってほしいですね。
薮田:リーダーの役割は、組織の規模や事業状況に応じても変わります。例えば、高校野球の監督がプロ野球でも監督を務めるのが難しいように、それぞれの「ゲーム」が違います。ビジネスも同様でしょう。自分が成長するか、人を変えるか。どちらなのかを判断しながら経営層を構築していくと、より良い成長につながるのではと思っています。
金田:最後になりますが、私事で恐縮ですが、2023年5月にスタートアップ向けに人事制度の作り方に関する本を出版したので案内させてください。スタートアップの人事制度は大企業や一般的な企業とは全く異なります。この本には、人事制度の構築に関するノウハウが掲載されていますので、興味のある方はぜひご覧ください。
薮田:金田さんの本はとても参考になります。弊社では新入社員の人事制度のオリエンテーションでは、この本の内容を3分の1くらいは説明していると思いますね。すぐに役立つ内容なので、おすすめです。
※この記事は「ALL STAR SAAS CONFERENCE 2023」のセッションから一部を抜粋・再構成しています。