世界的SaaS企業の成長を支えた「非常識な決断」とは何だったのでしょうか。
30万社以上の顧客を持ち、約200ヶ国でサービスを展開するAtlassian。Jira、Confluence、Trelloなど、チームコラボレーションを支援する多彩なプロダクトを提供するこの企業が、他のSaaS企業とは一線を画す「ユニークな決断」を重ねてきたことは意外と知られていません。
通常のエンタープライズソフトウェア企業が営業部門に投資し、高額なライセンス料を設定するなか、Atlassianは「競合の10分の1」という破格の設定で市場シェアの獲得を優先したこと。さらに創業わずか2年でセカンドプロダクトを投入する異例の決断も行いました。
Atlassianで12年間Presidentを務め、今はBOND Capitalでのキャリアを歩むJay Simons氏が、同社の成長を加速させた5つの戦略的決断とその背景を詳細に語ります。
プロダクト主導の成長(PLG)の先駆者として、エコシステム戦略、短期的損失を厭わない長期成長戦略、そして「忍耐」の大切さまで。成長フェーズにあるSaaS企業が押さえるべきマインドセットと実践的戦略を、Jay Simons氏のプレゼンテーションに続き、ALL STAR SAAS FUNDのManaging Partner・前田ヒロが引き出します。
Jay Simons プレゼンテーション:Atlassianを導いた「5つのユニークな決断」
Jay:皆さん、こんにちは。Jay Simonsです。BOND Capitalの General Partnerを務めて4年になります。それ以前は12年間、Atlassianという会社でPresidentを務めていました。今日は、Atlassianが若い会社だったころに行なった決断と、それらがいかに現在の姿を築いたのかについて、まずは私からお話しします。
Atlassianが何の会社かご存じない方のために説明しますと、Atlassianはチームのコラボレーションを支援するさまざまなプロダクトを提供しています。Atlassianがまだ本当に若い会社だったころ、私たちがとても慎重に考えていたのは、他と違う選択をすることで、ユニークで特別な会社を作り上げることでした。
2015年、IPOに際して提出した書類には、アメリカの作家であるDr. Seussの言葉を引用したページがあるんです。「You have to be odd to be number one.(一番になるには、変わり者でないといけない)」。この言葉は、ユニークな決断を誇りに思う気持ちを、ユニークな選択がユニークな会社を築くことを、改めて認識させてくれるものでした。

そこで、今日は皆さんに創業から20年経ったAtlassianが考える、現在の姿を築くうえで非常に重要だった「5つのユニークな決断」についてお話ししたいと思います。
決断1:「市場シェア優先」という果敢なプライシング

Jay:それでは、まず1つ目の決断。若いスタートアップにとっては難問である「プライシング」に関することです。Atlassianが創業当初に下した決断は、市場でのシェアを優先した価格設定であり、収益シェアは度外視しました。私たちは素晴らしいプロダクトと競争力のある価格で、できる限り多くの市場シェアを獲得することを目指しました。
一般的な考え方では、プロダクトのプライシングでは、できる限り多くの価値を取り込むべきと言われています。つまり、顧客にプロダクトを販売して価値を提供するのであれば、プロダクトの価値に応じた最高の価格を設定し、顧客が支払える限界まで価格を引き上げるべきだということです。販売したときに、そのプロダクトの価値を最大限に反映させるという考え方です。ほとんどのソフトウェア会社は、このようなプライシングを採用しています。
しかし、私たちは逆の選択をしたんです。競合他社ではなく私たちを選んでもらうために、可能な限り低価格に設定し、多くの顧客を獲得することを優先しました。そして、こうも信じていました。
「一度、顧客になってもらえれば、その後で関係を広げていくことははるかに容易いはずだ」

2008年、Atlassianの創業当時に設定した価格は、競合他社の数分の一で、非常に安価でした。上限なしで、会社内の全ユーザー数に対応したライセンスで、価格は4,800ドル。会社全体で利用するJiraの価格が最大4,800ドルだった、ということです。
現在では、だいぶ年月が経っていますので、導入規模によっては100万ドルを超えるケースもあるでしょう。しかし、当時は市場シェアを獲得すべくプライシングを利用していました。私たちはIBMやMicrosoftなど数多くのスタートアップと競争していました。彼らのソフトウェアの価格は、Atlassianの10倍から20倍も高かったのです。その結果、多くの顧客を迅速に獲得できました。こうして、まずは収益シェアではなく市場シェアを勝ち取りました。
顧客が、私たち以上に価値を得られるようにする決断に迷いはありませんでした。私たち自身が選択したトレードオフですからね。ただ、それは同時に異なるビジネスモデルの必要性を意味していました。4,800ドルのプロダクトでは、セールス担当を雇う余裕がなかったんです。セールス担当を採用するコストが高すぎたのです。
そこで私たちが見出した活路が、インターネットです。今の時代のSaaS企業にとっては当たり前ですが、2000年代初頭にインターネットで顧客にリーチする発想は一般的ではありませんでした。
当時、多くのエンタープライズ向けソフトウェア企業が提供するプロダクトは、試すことさえ非常に困難でした。試用もできず、導入プロセスも非常に複雑。さらに、価格は非常に高く、ライセンス料は数万ドルから数十万ドルにおよびます。ただ、実際これらの価格には大幅なディスカウントが適用され、営業チームは顧客へ最初に価格を提示してから、割引価格の設定や値下げ交渉に多くの時間を費やされていたのです。
販売プロセスはトップダウン方式で、企業の経営者層をターゲットにしていました。このようなサイクルのため、セールスチームと顧客の間での販売プロセスは数ヶ月もかかることがあったんです。しかも、すべてオフラインで。では、私たちはどのようなことを考えたのか。

私たちは、まったく正反対のアプローチを選びました。ターゲット顧客を選び、顧客自らがプロダクトを導入できる仕組みを構築したのです。価格はどんな予算にもあうように設定しました。顧客が受け入れやすい4,800ドルに設定し、追加の割引は一切なし。市場には「すでに割引後の価格」だと伝え、追加の割引を求められないようにしました。割引はすべての顧客に、平等にすでに提供していたわけですから。
非常に手頃な価格によって、組織内の誰にでも販売することができました。CIOやCTOに直接売り込む必要もなく、個々の社員がJiraを購入できて、社内のチームや部署にJiraを持ち込むことができました。セールスサイクルも、数ヶ月もかかりません。数日で完了しました。非常に効率的でした。
私たちはビジネス全体を、eコマースのビジネスモデルとして構築しはじめたわけです。顧客はクレジットカードが使えて、オンラインでプロダクトを試用してから購入できる。結果として販売がよりスピーディーになりました。私たちは競合他社よりも早く、多くの顧客を集め、顧客基盤を大きく拡大できたのです。
私たちは常にビジネスモデルやファネルの向上を続けて、プロダクト自体も改良を重ねて、「優れたプロダクト」に戻してゆくループをつくりました。ループのあらゆる段階を絶えず改善することが、ビジネスモデルを成立させ機能させる原動力だったのです。
これが、最初の大きな決断でした。プライシングモデルは非常に重要です。時間の経過と共に、Atlassianはプライシングを変更しました。でも、それは市場シェアを獲得した後のことです。脅威となる競合相手がほとんどいなくなり、さらに多くのプロダクトや顧客を抱えるようになってから変更しました。
決断2:設立2年目にセカンドプロダクトを展開した

2つ目のユニークな決断は、設立からわずか2年目に、2つ目のプロダクトを追加したことです。当時、この決断は非常に異例でした。多くの企業は単一のプロダクトに集中し、全力を注いで成功を目指す。そして、そのプロダクトが成功するまで新しいものには着手しないというのが鉄則でしたから。
私たちの場合、Jiraは1年目に成功を収めることができました。もちろん、やるべきことは山ほどありましたし、競合他社も多かった。プロダクトのさまざまな部分を強化しなくてはならなかった。それでも同時に、Jiraと連携できる新たなプロダクトの可能性が見えたのです。
創業から2年目で開発をスタートした2つ目のプロダクトが、Confluenceです。異例なことでしたが、私たちにとってはとても重要な決断となりました。多くの会社は通常5年、10年、15年、20年目あたりで2つ目のプロダクト開発をはじめていましたから。
さて、このとき、解決すべきことがいくつかありました。まず、2つ目のプロダクトのプライシングです。1つ目と同じ価格体系にするのか、それとも異なる設定にするのか。2つのプロダクトが関連している場合、その関係性をどう表現するのか。もしマーケティング部門が両方のプロダクトを宣伝したい場合、どちらを先に宣伝するべきか。どちらを優先するべきか。予算を立てて、エンジニアやセールス・マーケティング担当者を配置する場合、どのプロダクトを一番優先すべきなのか……すべて、非常に難しい課題です。
Atlassianは、まだ会社が非常に若いときにこれらのことを学びました。そして、現在のAtlassianは、20以上のプロダクトを扱っています。若く小さな会社だった当時に、複数のプロダクトを管理するための、さまざまな難しい決断を経験したおかげで、後のポートフォリオ全体の管理がずっと楽になったと感じます。
この経験は、1つ目のプロダクトが成功せずとも2つ目を開発すべきだ、と言いたいわけではありません。1つ目のプロダクトの成功は絶対に必要です。ただ、次のプロダクトへの着手が遅すぎるソフトウェア企業が多いんです。
考えてみてください。従業員が100人、500人、あるいは1,000人規模になると、2つ目のプロダクト開発に必要な取り組みを全員に理解してもらうことがより難しくなります。私たちの場合、この非常に価値のある、珍しい決断が現在の会社の基盤を築く大きなきっかけとなりました。
決断3:「貪欲になりすぎない」エコシステムの構築

では、3つ目の決断。これはとても重要です。会社を取り巻くエコシステムを構築することです。そして、そのエコシステムに対して貪欲になりすぎないこと。最初に私たちが構築を選んだのは「パートナーエコシステム」です。
Atlassianは日本進出において2つの方法を取りました。1つ目は、日本企業がJiraをオンラインで購入できる仕組みを整えたこと。当時はプロダクトの価格を米ドルのみで提示していましたが、2004年から2006年の間に日本の企業もインターネットを通じて、Jiraをクレジットカードで購入できるようになりました。
2つ目は、パートナーを通じた進出です。私たちは英語圏以外の市場に進出する際には、主にリセラーやVAR、サービスパートナーを活用しました。彼らは顧客向けにプロダクトのカスタマイズや調整をしてくれます。そして私たちは、パートナーが成功できるよう十分なマージンを支払います。
現在では、Atlassianの年間収益35億から40億ドルのうち、30%以上がパートナーを通じて生み出されています。この成功の鍵は、パートナーがAtlassianを基盤に、自分たちのビジネスを構築できる機会を得られたことにあります。私たちが当時、顧客紹介や市場におけるビジネスチャンスを提供し、マージンの点でも非常に柔軟な姿勢を持っていたことによって、パートナーはAtlassianを活用して自社の事業を拡大できたのです。
チャネルを構築する際に利益を追求しすぎようとすると、パートナーの成功は実現しません。そんなことをすると、パートナーは他社との提携を考えてしまい、1社ではなく複数社との提携を目指そうとするでしょう。Atlassianのケースでは、他社を探す必要はありません。なぜならAtlassianがパートナーの事業成長を効果的に支援したからです。だから彼らは、私たちだけに注力してくれたのです。
その結果、Atlassianの名刺を持っていないにもかかわらず、毎朝目が覚めた瞬間からAtlassianのことを考える人が、世界中に生まれるというエコシステムが形成できました。
もう一つのエコシステムの例として、他のソフトウェア会社がAtlassianのプロダクト向けのプラグインやアドオンを開発・販売できるマーケットプレイスを構築したこともお伝えしましょう。ここでも、パートナーへのマージンやマーケットプレイスやエコシステム管理における利益配分において、私たちは非常に柔軟な姿勢を見せました。
そして現在では、Atlassianのプラグインパートナーとして活動する会社のなかには、米国で新規上場の可能性を持つ会社も出てきています。それらの会社は、当社のプロダクト向けプラグインを構築することで、ARRが2億、3億、4億ドルにまで成長しているのです。
Atlassianにとっての価値を考えてみるとすれば、自社で開発せずに済んだプロダクトが非常に多かったという点が言えるでしょう。パートナー企業がその領域を構築し、利益を上げられる仕組みを作ったおかげです。さらに重要なのは、顧客がJiraを購入する際に、Atlassianのマーケットプレイスを通じて他社のプロダクトを3つか4つ同時に購入することが多いのです。当社のプロダクトをより使っていただき、顧客満足度が高まる結果も生んでいます。
Atlassianを取り巻く巨大なエコシステムは成長を続けています。現在、Atlassianの従業員は14,000人ほどですが、毎日、Atlassianのことを考える人は世界中に何十万人もいるわけです。皆さんご存じのSalesforceもまた、自社プロダクトやプラットフォームを基盤に、パートナーや他社ベンダーがビジネスを構築できるエコシステムを意図的に作り上げた成功例だと思います。それがSalesforceが巨大かつ成功した企業である理由の一つです。
決断4:短期的な成長を諦めるほどの「大胆な価格引き下げ」
4つ目の決断について。長期的な成長のために、短期的な成長を諦める覚悟を持つことです。

2009年、世界的な金融危機が起こり、特にアメリカでは多くの企業が事業規模を縮小しました。私たちの顧客も例外ではなく、支出の削減や事業閉鎖に追い込まれる会社が多数ありました。その結果、多くの顧客を失う状況に直面しました。
そのとき私たちは創業した当初のことを思い返したのです。先ほどのJiraのプライシングを思い出してみてください。当時の初期価格は1,200ドルでしたね。10人のチームや50人ほどの小規模な会社も1,200ドルを払うことができていた。でも、この金融危機のなかで、特に若いスタートアップにとってその価格は大きな負担となりました。
そして私たちも、金融危機の影響で顧客層が縮小していることに気づきました。当時、全収益の約10%がこの価格帯の顧客から生まれており、2009年の収益が2,000万ドルから2,500万ドルとすると、その10%はおよそ300万ドルに相当しました。なかなか痛い金額です。
ここで私たちは何を決断したか。この収益を市場へ還元することにしました。Jiraの価格を1,200ドルから10ドルへ大幅に引き下げたのです。すでに1,200ドルを支払った多くの顧客に対して実質的には返金したような形になります。さらに、新規顧客に対しても、本来1,200ドルで得られるはずだった数百万ドルの収益を、実質無償で提供することにしたのです。
この決断を下した理由は、当時の多くの顧客が経済的に不安定な状況にあり、プロダクト購入費用を捻出できない可能性があったからです。それでも彼らを顧客として獲得したいと考えました。なぜなら、困難な時期に獲得した顧客は、状況が改善したときには、共に成長し拡大していけると信じたからです。
スタートアップにとっては非常に難しい決断でした。収益の10%を犠牲にして、一時的な後退を選んだのです。「一歩下がって二歩進む」という考えは簡単ではありませんでしたが、この選択が会社にとって最も重要な決断の一つとなりました。もしそのとき、収益を1ドルでも多く守る道を選び、何も譲らずに踏ん張ろうとしていたら、翌年には顧客層がさらに縮小していたかもしれません。1,200ドルでできる限り収益を上げようと考えていたら、私たちはずっと小さな会社のままだったでしょう。
実際に私たちが経験したのは、ファネルの大幅な拡大でした。当時のマーケティング指標を振り返ると、トラフィック、トライアル、プロダクト利用へのコンバージョンがすべて3倍になり、新規顧客の獲得が急成長する大きな転機となったのです。そしてその後、経済が回復すると、これらの顧客は非常に速いペースで成長を遂げ、Atlassianが新しいプロダクトを追加するたびに購入を続けてくれました。
私たちが取った決断は非常に大胆で勇気のいる決断でしたが、短期的な成長のスピードを少し抑えることで、長期的にはより早く成長する可能性があるということ。そして、その可能性があると感じたときには、その選択肢を検討すべきだという教訓が得られました。とても重要な決断だったと言えるでしょう。
決断5:20年間の持続的成長を支える「忍耐」
最後のポイントは「忍耐」です。

Atlassianは、PLG型を実践した最初の会社の一つです。Atlassianのビジネスモデルは現在では多くのSaaS企業が採用していますが、当時は非常にユニークで、珍しかったのです。素晴らしいプロダクトを作り、それを試しやすく購入しやすい形にして、シンプルな価格を設定し、できるだけ多くの顧客に届けること。それがPLG型の理想的な考え方です。
セールスチームは、プロダクトの初期ユーザーとなった顧客を精査して、プレミアムやエンタープライズライセンスへの拡張を提案する役割を果たします。でも、最も重要なのは顧客が利用しやすいように、プロダクトを洗練させ、摩擦を取り除くことです。この実現には忍耐が必要です。
Atlassianは、シリコンバレーでよく言われる「T2D3」を達成していません。実現するのは非常に難しく、達成するためには成長のためにあらゆる手を尽くす姿勢が求められます。しかし、これを達成した会社を調べてみると、達成後の年には成長が急速に鈍化することが多くあった。これほどの成長を維持することは極めて困難だからです。
AtlassianはT2D3を達成したことはなく、成長率は常に35%から50%の範囲を維持しています。控えめな成長であり、収益の倍増とは言いませんが、Atlassianは、20年間にわたってその成長率を維持させたのです。この成長は驚異的な複利効果を生み出します。AtlassianはARRが10億ドルの時点で40%の成長率を維持していました。20億ドルに達しても同じく40%。30億ドルの規模に達した際も25%の成長率を維持しました。現在、収益がほぼ40億ドルに近づくなかでも、成長率は10%台後半を保っています。
この成長を支えた理由の一つは「忍耐」です。私たちは、先ほど述べたように、最初から最大の価格帯を設定せず、低価格でスタートし、利用拡大やプレミアムバージョンなど追加のプロダクトの販売・提供を通じて、時間をかけて顧客と共に成長することを選んだのです。
最後に、いくつかのチャートでこのプレゼンテーションを終わりにしたいと思います。1つ目は、顧客の成長に関するものです。まだAtlassianが若い会社だったころ、私たちの最大の目標は購入済みの顧客を5万人獲得することでした。当時、その目標を達成するのはほぼ不可能と言われていました。

しかし、私たちは15年以上の努力を続け、今ではその目標を大きく超えています。現在、Atlassianは約35万から40万人の顧客を抱えています。これは長い時間をかけて築き上げた成果です。初期の成長は控えめでしたが、時が経つにつれて大きな複利効果が表れました。

これは、個々の顧客との関係にも当てはまります。たとえば、Atlassianと11年の取引のある顧客を例に挙げると、最初の購入額はおそらく4,800ドル程度でした。Jiraの小さな無制限ライセンスだったはずです。しかし、その顧客は10年後には年間100万ドル以上をお支払いいただくようになりました。このデータはおそらく6年前のものなので、現在では年間で400万から500万ドルほど支払っている可能性があります。
一般的なエンタープライズ向けソフトウェア企業の多くは、初年度に100万ドル規模の契約を目指します。「いずれ、あなたは100万ドル規模の顧客になるのだから、今からその価値を体験してください」と説得します。一方で、Atlassianのアプローチはまったく逆でした。「まずは最小限のソフトウェアを購入し、試してみてください。時間をかけて一緒に成長していきましょう」と顧客に伝えてきたのです。結果的に、その顧客は500万ドルや600万ドルと成長を続けました。
予測可能なビジネスモデルがもたらす「直線的」な成長
私のプレゼンテーションの最後に、IPO目論見書のなかで最も気に入っていた箇所を紹介しましょう。私たちのビジネスモデルとその仕組みを示したもので、「セールスの直線性」について示したものです。

言い換えると、四半期を通じたビジネス獲得のペースを示したものです。エンタープライズ営業やソフトウェア業界に詳しい方であれば、エンタープライズセールスの直線性は四半期末に急増することをご存じでしょう。四半期の「最後の2週間」に取引って集中しますよね。こうした不確実性に左右されるビジネス運営は、経営に大きな負担を与えます。四半期の目標達成が直前まで不確定だからです。
しかし、Atlassianのビジネスは完全な一直線でした。どういうことかというと、私は長い間、セールスとマーケティングを統括していましたが、期の途中で結果を変える手段などありませんでした。その期の結果は1年前の取り組みで、ほぼ決まっていたのです。四半期の結果に影響を与える唯一の方法は、世界中に大幅なディスカウントを告知することくらいでしょう。
「Q1に購入すれば50%オフ」と告知すれば、その四半期の結果を大きく変えることができ、売上を伸ばすことも可能かもしれません。しかし私たちは、ほぼ正確に各四半期の結果を予測できました。この仕組みの最大の利点は、リーダーとして四半期中に慌てて行動をする必要がなかったことです。すべてのエネルギーと努力を次の年に向けて集中させられました。「今やるべきことを行えば、翌年の受注が安定し、予測可能になる」。非常に理想的なサイクルです。
Atlassianに参加する以前、私はまったく異なるタイプのエンタープライズ向けソフトウェア会社で働いていました。私の仕事は四半期ごとに焦点を当て、顧客との面談や交渉を行い、四半期中に、すべてのビジネスを収めることに専念していました。そして、その期が終われば次の四半期に準備する、これの繰り返しでした。Atlassianはまったく違ったんです。
IPOまでの道のりも「忍耐」を持ち続けました。創業から上場まで13年かかりました。そして何より重要なのは、多くの人が上場をゴールだと言いますが、実際には「本当のはじまり」ですよね。

上場の日は、非常に特別で幸福な日でした。私は妻と一緒に写真にも収まっていますが、創業から10年以上会社に貢献してきた仲間たちの多くが、オーストラリアからニューヨークに集まり、IPOを祝いました。その日、会社の評価額は43億ドルに達したのです。

現在はAtlassianの時価総額はさらに上昇し、650億ドルに達しています。約10年が経過した今も、私たちは引き続き成長と拡大を目指しています。
複数プロダクトの展開と「顧客中心」のクロスセル戦略
前田:さて、ここからは私も、Jayさんに質問していきたいと思います。
前田:Atlassianには20以上のプロダクトがあると聞きましたが、それらのアップセルやクロスセルを進めるなかで、複雑な部分があるのではないでしょうか。それらはどのように機能しているのですか?
Jay:そうですね、確かに難しかったです。プロダクトや顧客との関係性を深く理解するには、多くの努力が必要でした。「ランド・アンド・エクスパンド」という表現がありますが、私たちの場合、まずは複数のプロダクトを最初に導入(ランド)してもらい、その後にプロダクトを追加で拡張(エクスパンド)していく、ということになります。
ですから、私たちはまず、どのプロダクトを最初に導入してもらうのかを考えます。次に顧客のプロファイル、プロダクトの利用状況、成熟度に応じて、提案すべきプロダクトを理解することに注力してきました。Jiraを購入した後にConfluenceを提案するタイミングを見極めるわけですね。
こんな例え話があります。服を買うときの話です。あなたがシャツを探してお店に行ったとしましょう。店員が「このシャツ、お似合いですよ」と勧めてきます。あなたもそれを気に入ったら、「このシャツにはこのパンツが合いますよ」「靴とベルトはこちらがいいでしょう」とさらに提案され、気づけばコーディネートを一式そろえて購入することになった……でも、この体験は楽しいとは限りませんよね。なぜなら自分は、シャツだけが欲しくて買い物に来たのですから。店員が多くを勧めすぎると、「もうこの店には行きたくない」と感じることもあるでしょう。
ソフトウェアも同じだと考えています。Jiraを求めてやってきた顧客は、単に課題管理ツールが欲しいだけかもしれません。そういうとき、私たちの仕事は、Jiraが最高の課題管理ツールだと納得してもらうこと。「あなたは課題管理ツールを求めている、それはわかりますが……今すぐお伝えしたい他の8つのことがあるんです」と切り出すのは間違いなんです。それでは、顧客の負担が大きすぎます。私たちがテストしたところ、この方法では多くの顧客を失うことが示されました。
では、ほとんどの会社が取るアプローチとは何でしょうか。ACVを増やすことです。顧客にもっと購入させて、ACVを上げること。3つのプロダクトを2つの価格でまとめて売ったりするんです。短期的にACVは増えるかもしれません。私たちはたくさんの実験を行う会社で……私たちがたどり着いた答えは、顧客が目的の商品だけを求めている場合には、このアプローチではCVRが下がるということでした。
そこで、私たちは、顧客に最適なプロダクト提供方法を模索し、そして「忍耐」を持つことの重要性を学んだのです。たとえば、顧客がJiraを求めているなら、Jiraを売ることに集中します。それだけを提供するのです。他のプロダクトについては軽く触れる程度にとどめて、Jiraが素晴らしいプロダクトだと理解してもらいます。
Jiraを使いはじめてから、6〜8ヶ月ほどJiraをしっかり使ってもらう期間を設けるんです。そうすることによって、Jiraというプロダクトが、しっかりと根付きます。そのときこそ、新しいプロダクトを紹介する最適な時期です。顧客は1つのプロダクトの価値を十分に理解した後なので、他のプロダクトにも興味を持ちやすくなります。
前田:少し細かい話になりますが、マーケティングファネルはプロダクトごとに20もあるのですか?それとも、プロダクトのグループごとにいくつかのファネルが存在するのでしょうか?
Jay:ファネルの数はそれほど多くありません。20もないでしょう。あと、プロダクトごとにはありません。私が退職して4年経ちますが、すべてのプロダクトが導入用というわけではありませんでした。ただ、Jiraは重要な導入用プロダクトです。非常に大きなブランドであり、多くのユーザーがいます。ユーザーは、ある会社から別の会社に移る際にも、Jiraが導入されていないと新しい職場に持ち込もうとするほどです。
Jiraは非常に重要な導入用プロダクトであるため、マーケティング活動や、その後の顧客との関係を理解することが、とても重要です。一方で、独自のファネルを持つプロダクトも存在します。Atlassianは、独自のファネルを持つ会社を買収し続けています。
前田:最近ではLoomを買収しましたよね。
Jay:Loomは独自の顧客獲得方法を持ち、組織に入り込み、オーガニックに成長しています。Atlassianはその関係性を理解し、次に誰と、どのタイミングで、何を話すべきか、それらを把握することができているんです。
「非対称な競争」に持ち込め(決してそれは機能追加だけではない)
前田:プロダクト開発についても聞かせてください。競争が非常に激しい世界では、他社との競争は、プロダクトのロードマップにどのような影響を与えましたか?
Jay:競合他社については、どの会社も常に警戒していると思いますが、同時に、顧客へ集中することも大切です。ありきたりなアドバイスに聞こえるかもしれませんが、両方を行う必要があるんです。
市場がどう動いているのか、何が行われてるのか、何を改善すべきなのか、プロダクトに標準機能として搭載すべきものは何か。それらを見極める必要があります。そして、顧客とより深い関係を築いているからこそ、自分たちならではの提供価値を見出す必要があります。
初期の段階では、競争できる方法を見出すことに注力していました。そのなかで「非対称な競争をする」という考え方があります。何か独自で、真似されにくい優位性を生み出す方法を見つける、という意味です。プライシングは、その一例です。
当時、私たちと競合他社では、価格設定に、大きな差はありませんでした。私たちが価格を引き下げられた背景には、営業部門を持っていなかったという特徴がありました。営業部門がなかったことで、案件の目標額や価格設定、市場の期待値といった制約に縛られることなく、柔軟な価格戦略を取れたのです。
そのため、どのようにも価格を設定できた。何かを無料で提供することも、変更を加えたりすることだってね。そして、それがビジネスモデルに大きな影響を与えることはありませんでした。一方で、競合他社は旧来の販売手法を続けていましたから、私たちのやり方に追随することは不可能でした。私たちのやり方は彼らの販売の仕組みを大きく乱すからです。
競合他社が真似できないようなことをする機会を探していました。その多くは私たちのビジネスモデルに関することでした。というのも、プロダクトに革新的な機能を追加しても、誰かがそれを見て真似することができますし、その逆もまた然りです。
HipChatとSlack競争から学んだ「良き競争相手」の価値
前田:もしかすると、このお話は……嫌な記憶を呼び起こすかもしれませんが、かつてHipChatは、Slackと競争していましたよね。その競争から得た教訓にはどのようなものがありますか?それは戦略の考え方にどのような影響を与えたのでしょうか?
Jay:確かに、私たちはSlackと競争しました。実は、Slackが登場する前に、HipChatという会社を買収していたんですよ。そこから得た教訓は2つあります。
1つ目は、HipChatが不安定で、パフォーマンスに問題があったことに起因します。私はこの問題こそ、Slackが作られたきっかけになったのではと思っています。Slackはもともとゲーム会社で、そこから事業を転換しました。彼らはHipChatを使う代わりに、自分たちの独自ツールを作り、それが最終的にSlackというプロダクト、そして会社になったのです。
ここでの教訓は、当時もっとこの問題解決に注力すべきだったということです。それができていれば歴史は変わっていたかもしれません。当時、HipChatは急成長していました。しかし私たちは、その需要に対して必要な規模でスケールできるのかを、じっくりと評価する時間を取らなかったのです。
もう一つの教訓は、他の重要な分野に注力しているときに、大きな市場カテゴリで競争することは非常に難しい場合がある、ということです。新たなカテゴリを追加すると、バランスを取るのが難しくなります。Slackはその良い例です。彼らは、ただ一つ、チャットのみにこだわり、注力しました。朝起きれば、チャットのことを考え、チャットを市場に展開し、自社のために市場を開拓する、それだけを考えていました。
私たちの場合は、目覚めたとき、課題管理のことを考えていました。チームコラボレーションのその部分について考えていたんです。私たちのエネルギーの多くはそこに向けられていました。HipChatはもちろん重要でしたが、それは付随的なものでした。付随的なものを管理していると、その物事にかける資源やエネルギー、優先順位付けが、より複雑になってしまいます。
この歴史を知っている人はわかると思いますが、私たちはSlackと非常に激しく競い合ってきました。結果として、Slackが市場を制したのです。市場を完全に支配してしまいました。私たちは継続することの機会費用があることを認識していましたから、HipChatをSlackへ売却することを決めたのです。自社のプロダクトをSlackに売却し、顧客のケアを確実に行なったうえで、市場から撤退しました。
あと、もう一つ大切な教訓は、Atlassianが素晴らしい文化を持つ会社だったということです。若いころ、私たちは、良い人間であり続けることを重視していました。これは競争関係にあり、勝ちたいと考えていた相手であっても同じで、常に競争相手に敬意を払っていました。
たとえば、Slackに障害が発生したときには、「手助けできることはありませんか?」と連絡を取りました。彼らが新プロダクトを発表した際は、カップケーキを送って、発表を祝い、「素晴らしい新プロダクトだね」と伝えたこともありました。
私たちがHipChatをSlackに売却できた理由の一つは、親切心を持ち、リスペクトを怠らない、そういう競争相手だったからだと思います。もちろん、互いに勝ちたい気持ちがあっても、相手を踏み台にするようなことはしませんでした。ネガティブな競争をしなかったのです。だから、顧客のための話し合いをする際は、彼らはすでに良いパートナーだったのです。
(※この記事は「ALL STAR SAAS CONFERENCE 2024」のセッションから抜粋・再構成しています)