SaaSビジネスにおいて、ARR100億円の壁を突破することは大きな節目。しかも、突破が難しいのであれば、その後も持続的な成長を実現することは、より困難な挑戦となります。
そんな中、2024年にARR150億円を突破し、前年比プラス50%という驚異的な成長率を達成したSmartHR。この高い成長率を実現できた背景には、組織や戦略に関する重要な決断が多くありました。多くの成功、そして失敗も経験しました。日本屈指のユニコーン企業の持続的な成長を支えた戦略とは、どのようなものだったのでしょうか?
ARR1億円のフェーズからSmartHRの成長を牽引してきた取締役COOの倉橋隆文さんに、各フェーズでの重要な意思決定や、高成長を継続するための組織マネジメントについて伺いました。ARR100億円以上を目指すスタートアップが必ず超えなければならない壁、そして成長率を鈍化させないための取り組みを紐解きます。
聞き手は、ALL STAR SAAS FUNDのManaging Partnerである前田ヒロです。
「成長の限界」を見極め、先手を打つ
前田:倉橋さんはSmartHRへ入社されて8年目になりますが、ARR1億円にも到達していない時期から参画され、今や150億円以上まで成長を牽引されてきました。最初の質問として、高成長を維持するために重要な「成長の鈍化をどう予測するか」をお聞かせください。
倉橋:成長が鈍化するポイントを早めに見極め、それを先回りして投資していくことが非常に重要です。この点について、2つの重要な観点があります。
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倉橋:一つは、どのような成長曲線を目指すかという経営判断です。例えば、Atlassianのように段階的な成長を目指すのか、それともT2D3のような急成長を目指すのか。SmartHRの場合はT2D3を選択したため、積極的な資金調達や組織拡大を行ない、ときには組織の成長痛を受け入れながらも成長を追求してきました。
もう一つ重要なのが、成長の限界を決定づける要因の見極めです。実は、ほとんどの成長の壁は努力や覚悟で乗り越えられます。リソース不足は採用で、資金不足は調達で対応できる。しかし、一企業では対応が困難な壁が2つあります。それが「TAM(実現可能な最大市場規模)」と「リード発生スピード」です。
SmartHRの場合、どこかの企業の人事部長が「DXに取り組もう」と考えたときや、中小企業で二代目社長が就任して「DX化を進めたい」と思ったときにリードが発生します。そして、このリード発生には一定の確率論があります。例えば、TAMが100社あったとして、毎年5%の企業が人事DXに取り組むとすると、いくら啓蒙活動やマーケティングに力を入れても、一企業の努力では6〜7%程度にしか上げられないのです。
リード発生スピードが劇的に変化するのは、マクロ環境の変化が起きたときだけです。コロナ禍でオンライン会議の需要が急増したように、一企業ではコントロールできない外部環境の変化が、市場全体の動きを加速させることがあるのですね。
「市場の壁」を超えるための戦略をどうすべきか
前田:TAMの拡大について、どのタイミングから意識しはじめましたか?
倉橋:SmartHRでは、ARR3億円から10億円くらいのタイミングでした。未来を見据える余裕が出はじめたときに、T2D3の成長曲線から外れる可能性が見えてきたため、TAMを広げる動きをはじめました。
ただし、市場攻略の考え方として重要な指針があります。出自があやふやですみませんが、海外企業のナレッジで「SAMというのは3分の1は取れる市場であり、次の3分の1は時間をかければ取れる市場、そして残りの3分の1は一生取れない市場」という考え方です。この視点を参考に、現実的な市場計画を立てています。
前田:ARR10億円とARR100億円のタイミングで、重視する指標は変わりましたか?
倉橋:ARR100億円を超えてから、生産性関連の指標をより重視するようになりました。一人当たりARR、バーンマルチプル、マジックナンバーといった生産性指標の重要性が増しています。
これには2つの要因があります。一つは事業フェーズからいって、株主からの黒字化へのプレッシャーが強くなること。もう一つは、時代の変化です。以前のSaaSは「とにかく成長」が重視されましたが、今は「クオリティグロース(質の伴った成長)」が求められる時代になっています。
また、成長に向けた施策の準備期間も、規模に応じて長期化しています。ARR1億円の頃は半年程度の準備で十分でしたが、ARR100億円になった今では1〜2年前から準備をはじめる必要があります。現在はもう5年後、10年後を見据えた動きを意識しています。
前田:それほど先が見えているんですね!
倉橋:どうにか見なくてはいけないと思って頑張っています。もう一つ、事業が大きくなる際に発生する変化は、イノベーションのジレンマです。組織が強いといわれるSmartHRでも例外なく発生しています。
具体例を挙げると、新規受注で急成長している中でアップセル・クロスセルの強化を目指す際に顕著に表れます。新しい取り組みは必然的に小規模からのスタートとなりますが、既存の大きな事業を担当するチームからは「なぜ、小さな売上のために、私たちの重要なターゲットを取りこぼすリスクを抱えなければならないのか」という声が必ず上がってきます。
このジレンマの恐ろしい点は、何の悪意もなく発生することです。むしろ、真面目に自分のミッションを全うしようとする人たち、大きな売上を担当する責任感の強い人たちから、「今は新しいことをする余裕がない」という声が上がってくるのです。
経営としては既存事業と新規事業の両方を進めていく必要があるため、私は過去7年半で全社向けに3回ほど、イノベーションのジレンマについて説明する機会を設けました。これこそ必然的に発生する課題であり、しかも善意から生まれるものだということを理解してもらうことが重要だからです。
その上で、経営陣の重要な役割は小さな取り組みを守ること。組織の力学として、人数も多く実績もある大きな事業の方が、小さな事業を飲み込みやすい傾向にあります。そのため、新規チームを独立させたり、その重要性を繰り返し説明したりすることで、保護育成を図っています。幸いなことに、SmartHRにはこのジレンマを乗り越えていける強い組織力が備わっていると自負していますから、やはり組織力も大事であると言えますね。
「やり切り力」を1,200名の組織に浸透させるには
前田:私は2015年から投資家としてSmartHRに関わらせていただいていますが、特筆すべき強みの一つは、組織の隅々まで浸透している「やり切り力」が本当に素晴らしい。この文化を、現在1,200人以上いる従業員全体にどのように行き渡らせているのでしょうか?
倉橋:手前味噌ですが、確かにSmartHRの「やり切り力」は誇りです。メンバーも喜びますよ(笑)。では、なぜ強いのか。SmartHRでは、主に3つの要素に支えられています。
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倉橋:大前提として、良い人材の採用があります。これは言わずもがな、ですね。
その上で重要なのが、アウトプットとアウトカムという言葉を社内で明確に使い分けていることです。アウトプットは「施策を実施した」「プロダクトをリリースした」といった行為そのものを指します。一方、アウトカムはその結果として「これだけの顧客を獲得できた」「チャーン率が改善した」といった成果を表します。
私たちは徹底的にアウトカムにこだわる会話をしています。単にアウトプットを出しただけでは評価されず、「そのアウトカムはどうなの?」という問いかけが必ず行なわれます。
この文化を根付かせる上で、リーダーの役割が極めて重要です。リーダーの喜怒哀楽が組織に大きな影響を与えるという認識のもと、成果に対する感情を積極的に共有しています。目標達成時には心から喜び、商談で負けたときは悔しさを表現する。そうすることで、「この組織ではこういうときに喜ぶ」「この感情に価値がある」というメッセージを伝えています。
さらに重要なのが、登用の基準です。アウトカムを出せる人材を登用することで、その価値観が組織全体に伝搬していきます。実際の登用においては、アウトプットとアウトカムの見極めが非常に重要です。
世の中には頭脳明晰で素晴らしい提案ができる人材もいます。しかし、実はビジネスの世界では、最後は「気合と根性」が必要になってくる。私自身、マッキンゼーでの経験やハーバード・ビジネス・スクールでのMBA取得など、比較的「左脳寄り」のバックグラウンドを持っていますが、それでもビジネスには「気合と根性」が必要だと確信しています。
「気合と根性」が足りない人ほど、説得力があり、とても聞こえの良いアウトプットを話すことがあります。でも、やはりアウトカムが足りていない。そうではなく、あくまでアウトカムを出し切れる人材を登用することで、アウトカムへのこだわりが組織全体に伝播していくと考えています。
感情共有から生まれる組織の一体感
前田:倉橋さんのような立場の人が、一緒に喜んだり悔しがったりすることは、メンバーからすれば「自分の問題にしっかりと向き合ってくれている」「考えてくれている」という印象につながり、それによってコミット力もきっと上がりますよね。
倉橋:そうですね。今でも私は各営業の進捗シートをバイネームで手元に置いていて、達成しそうな人がいると「もうちょっとだね」と声をかけに行ったり、達成した人には「やったね!」と一緒に喜んだりしています。好きでやっていることですが、こういった小さな関わりも効果があると実感しています。
前田:素晴らしいと思います。SmartHRの「やり切り力」を特に感じるのは、期日の最後の日まで全員が諦めずに動いていることですね。普通なら「もうあと3日しかないからダメだ」と諦めてしまうようなところを、最後の1分まで全員が粘り強く取り組んでいます。
倉橋:何期か前には最終営業日の夕方17時ごろに達成が確定して、リモートワーク中でしたが思わず一人で涙が出ました。「ありがとう」という気持ちでいっぱいでしたね。本当にすごいんですよ、うちのチーム。
前田:ダイレクトレポートとのコミュニケーションについて、さらに具体的にお聞かせください。倉橋さんの言葉を借りれば、特に「左脳型」の人たちのモチベーションを高めるために、どのようなコミュニケーションスタイルを心がけているのでしょうか。
倉橋:私自身、現在も成長途上です。以前は「任せる」文化を重視するあまり、ゴールだけ決めて「どうやるかは任せます」と言って結果だけを確認する形でした。しかし、組織が大きくなるにつれて、「任せる」と「放置」の境界が曖昧になってきてしまった、という反省がありました。
そこで最近は、感情的に詰めることは避けつつ、淡々と「なぜ予想と外れている?」「原因は何でしょうか?」「それを踏まえて次はどうするのか?」といった質問を投げかけるようにしています。
前田:感情的に詰めない、というのはポイントですか。
倉橋:私にとっては、それは無駄だと思っているのです。だから、基本的な「任せる」姿勢は保ちながらも、必要な指摘や質問はして、それに対するアカウンタビリティを求めるようになりました。
この姿勢は組織全体へ広めていきたいと考えています。信頼している執行役員に対しても同様の質問を投げかけることで、執行役員も自分のチームに対して質問がしやすくなるという効果が生まれていますね。まだまだ成長途上ですが、このような形でコミュニケーションスタイルを進化させています。
SmartHRの圧倒的な「課題解決能力」の仕組み
前田:SmartHRのもう一つの特徴が、圧倒的な課題解決能力です。取締役会で課題として挙がったことが、次回には解決されているか、少なくとも解決に向かっていることが多い。この組織力はどのように築かれているのでしょうか?
倉橋:特別なことはしていません。ただし、課題に対して「次のアクション」「期日」「担当」を必ず決めるようにしています。特に「担当」の決定に非常にこだわっています。
この3要素の中で、実は「担当」が最も重要です。優秀な担当者が決まれば、その人が自ら適切なアクションとスケジュールを設定してくれます。一方、担当者が決まっていない課題は必ず停滞します。そのため、SmartHRでは「オーナー不在の課題」に対して組織全体が非常に敏感です。
前田:担当をアサインするときのポイントはありますか?
倉橋:担当者を決める際は、その人の得意分野や管掌領域との関連性はもちろん、「余裕があるか」「やる気があるか」という要素も重視します。SmartHRは、やる気ベースで意思決定するところもありますし、最後は「気合と根性」が大事なので(笑)。
例えば、経営陣の週次ミーティングでは、ある課題について本来の担当部署が「今は手一杯です」と伝えれば、別のメンバーが「では私が担当します」と手を挙げることもあります。
また、すべての課題に同じように取り組むわけではありません。「戦略的後回し」という考え方も便利です。ただし、その際には必ず関係者間で合意形成します。「この課題は今は対応せず、次に同じことが起きたときに検討する」といった判断を、組織として明確に共有するのです。
担当者の決定と合意形成を丁寧に行なうことで、課題が放置されることなく、着実に解決に向かっていく組織文化につながっているのだと思います。だから、取締役会でご指摘いただいたことが、放置されることなく解決に向かっていくのですね。
全社横断の「特殊部隊」が支えるCxOの役割
前田:COOとして基本的にはVPに任せることが多いと思いますが、倉橋さん自身が現場に降りていくことはありますか?
倉橋:以前に比べるとかなり減りました。2〜3年前は自分で手を動かすことも多かったのですが、今ではほとんどなくなっています。それには2つの理由があります。
一つはVPに任せられる体制が整ってきたこと。もう一つは、私の直下に「事業企画」という特殊部隊チームがあり、優秀なメンバーが数名いて、私がやるべき業務を任せられるようになったことです。実は、うちのCxOのほとんどがこういったチームを持っています。CEOの場合は「CEO室」という名称ですが、ビジネス組織では「事業企画」という形で、業務が増えてきた際のサポート体制として非常に助かっています。
前田:このチームのメンバーは、どのようなバックグラウンドをお持ちなのでしょうか?
倉橋:私のチームの場合、コンサルティング企業出身者、大手IT企業でサプライチェーンマネジメントを担当していた方、SaaS業界で戦略系の仕事をしていた方という、3名のメンバーが現状います。
前田:チームが担当する案件は主に戦略的なものが中心なのでしょうか?
倉橋: はい。戦略的で、かつ部門横断的な案件が多いですね。単一部署で完結する案件はVPに任せますが、複数のVP領域にまたがる案件は、まさにCxOの仕事になります。ただ、私一人では手が回らないので、「事業企画」チームに任せて、時折壁打ちをしながら進めていく形を取っています。
前田: そうなると、やはりコンサルティング経験者が向いている仕事なのでしょうか?
倉橋: コンサルティング経験者でなければならないということはありませんが、確かにコンサル経験者は向いていると思います。全社横断的な視点と戦略的な思考が求められる仕事だからですね。
組織の成熟度に応じた目標設定を考える
前田:2020年に倉橋さんとPodcastを収録した際に「目標の達成可能性は70%がベストラインだ」とおっしゃっていましたが、この考えは現在も変わりませんか?
倉橋:正直に申し上げると、前言撤回とさせてください。半年前までは「達成可能性50%程度が適切」と考えていた時期もありました。
これは組織の成長に伴う変化です。会社が大きくなるにつれて、業績に対するプレッシャーも増加します。また、初期のスタートアップに参画する人材と比べ、レイターステージで入社する人材は比較的保守的な傾向があり、組織全体の「読み」も固くなっていきます。
しかし最近は、目標設定は本当にチーム次第だと考えるようになりました。例えば、予算策定において、これまでは経営陣からのトップダウン目標に対して事業部門がボトムアップの数字を出し、その間で調整するのが一般的でした。ところが最近では、経営陣が示したガイドラインを上回る目標を自主的に掲げてくる頼もしいチームも出てきています。
むしろ経営陣の方が「組織が壊れない?大丈夫?」と心配になるほどです。このように、チームやリーダーによって適切な目標設定は大きく異なり、ときには目標を抑制する必要があるケースもあれば、さらなる高みを目指すよう促すケースもあります。
なので、ベストラインはチーム次第である、というのを最新の説としてください(笑)。
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未達を察知したとき、いかに介入していくか
前田:チームごとの目標設定の傾向を、事前に把握する方法はありますか?高めの目標を出してくるチームもあれば、低めに出してくるチームもあると思うのですが。
倉橋:最近は、過去の傾向からの推測に頼らざるを得ない状況です。組織が小さかった頃はチームの状況をよく把握できていたので、「このチームならもう少しいけるだろう」といった感覚的な判断もできました。しかし、現在は1,200人を超える組織になり、チームの現場感覚を掴むのが難しくなっているため、良し悪しではなく数字のみで判断せざるを得ませんね。
前田:会社のダッシュボードを常にチェックされていると思いますが、「このままでは未達になりそうだ」と感じたときは、どのような行動を取られますか?
倉橋:かなり注意深く見ています。次のビジネス定例会議で「大丈夫そうですか?」と投げかけ、「どんな状況で、どうしていく予定ですか?」といった質問を投げかけていきます。
そして、それでも未達が避けられないとなった場合は、具体的なアクションを起こすこともあります。例えば、Atlassianはキャンペーンなどを行なわず、来年のことを考えるというアプローチを取っていますが、それは彼らのような段階的な成長曲線を描く経営だからこそ可能なことです。私たちの場合はそうもいきません。
「キャンペーンをやるべきか?」といった判断を早めに行なう必要があります。綺麗にのんびりと成長曲線を描けるほど簡単ではないので、常に試行錯誤を続けています。
前田:早く動きすぎることのリスクについてはどうお考えですか?例えば、先行指標が少し気になるからといって早急に動いてしまうと、チームの自走機会を奪ってしまう可能性もありますよね。
倉橋:これは2つのシーンで分けて考えています。
まず、数字の達成に関しては、早く動きすぎて後悔したことはあまりありません。実は、私は結構「待つ」タイプで、うちの組織は粘り強いという信頼があるので、「まだいけるんじゃないか」と考えがちです。むしろ数字に関しては、介入が遅すぎることの方が多いかもしれません。
一方で、プロジェクトの意思決定や日々の判断については、よく「倉橋さん、入ってくるのが早すぎます」というフィードバックをもらうくらいです。「倉橋さんが方向性を示してしまうと、それで決着がついてしまう」と。そのため最近は、会議でも最初の15分は黙って聞くようにするなど、意識的に抑制するよう心がけています。
前田:そういったフィードバックがしっかり来るんですね。
倉橋:ありがたいことに継続的にフィードバックをいただいています。これは私の生涯かけて克服すべき課題だと認識しています。つい喋りすぎてしまうんですよね。改善の余地が大いにあります。
25分の全社プレゼンに「構想10時間、資料制作10時間」
前田:僕は倉橋さんを8年間見てきましたが、倉橋さんのプレゼンが大好きなんです。全社向けプレゼンテーションはとてもわかりやすく、組織全体が同じ方向を向くようなメッセージ性があります。どのような点を意識されているのでしょうか?
倉橋:リーダーの重要な役割の一つが、組織全体を同じ方向に向けることです。そのため、うちのリーダー登用においても「演説力」を重視しているんです。
例えば、全社キックオフでの25分程度のプレゼンテーションのために、構想に10時間、資料作成に10時間かけることもあります。それは、経営層が全従業員の行動を変えられる最大の機会が、年始のキックオフでのプレゼンテーションだからです。
内容面では、なるべく絞ることと、全員に関係することに焦点を当てることを意識しています。経営上重要な事項は常に複数ありますが、人間は5つも6つも同時に覚えられません。そのため、最近は一つのテーマに絞るようにしています。
さらに、1,200人の従業員がいる中で、最低でも80%の人に直接関係があることをテーマとして選ぶように心がけています。全社で最も重要な事項であっても、半数の社員にしか関係がないものは避けます。残りの50%の人々のモチベーションが下がってしまうからです。
それと同時に毎回伝えているのが、全社ミッションを掲げること。ただ、全社ミッションは会社の大事なことのうちの30%くらいですよ、とも毎回話します。全社ミッションに掲げないけれど大事なことも他にいっぱいありますから。
社歴が長い人は半年に一度は「倉橋から同じことを言われるなぁ」ときっと思っているでしょうが、そのあたりのコミュニケーションも横着せずに、全社ミッションについての考え方については伝えます。
「伝えやすい戦略」と「良い戦略」は、実は少し異なる
前田:倉橋さんは戦略を非常にわかりやすく説明されますが、良い戦略をつくる際に意識されている要素はありますか?
倉橋:重要なのは、「伝えやすい戦略」と「良い戦略」は、実は少し異なるという認識です。伝えやすい戦略については、プレゼンテーションテクニックの話が中心になります。例えば、「これから2つのポイントについて説明します」と事前に構造を示してから内容に入るといったテクニックもそうですし、磨き込んでいく必要はあります。
一方、良い戦略の本質は構造的優位性にあります。競争優位がなければ市場平均以上のリターンは得られません。そのため、「なぜ私たちがやるのか」「他社が真似できない構造的な理由はあるのか」という点を徹底的に詰めていきます。
完璧な戦略というものはありませんが、最低でも「ここは構造的に優位性がある」という部分を明確にしなくてはなりません。他の部分は真似可能な優位性であっても構いませんが、核となる構造的優位性については徹底的にこだわっています。
COOとして「ロジックと気合」のバランスを取るのが大切
前田:特にプロダクトチーム、エンジニアチームとの関係において、COOとして心がけていることはありますか?
倉橋:重要なのは「ロジックと気合」の両方のバランスを取ることです。多くの会社では、ビジネスサイドの人間は「気合と根性」に寄りすぎている傾向があります。一方、プロダクト側の人々は比較的ロジカルな思考を好む傾向にあるため、コミュニケーションが難しくなることがあります。
私自身、根はかなりロジカルな性質を持っていますが、同時に「気合と根性」も大切にしています。この両方の要素を持っているからこそ、プロダクトチームと効果的なコミュニケーションが取れているのだと思います。
あとは、話しかけやすい雰囲気をつくることも意識しています。組織が大きくなるほど現場の声は入りにくくなりますが、その状態は危険です。現場で起きていることを知らずに意思決定すると、大きなミスを犯す可能性がある。「答えは現場にある」という信念で、プロダクトサイド、ビジネスサイドの両方から率直な意見をもらえる環境づくりを心がけています。
前田:倉橋さんの時間の使い方も気になります。ARR150億円規模の企業のCOOとして、どのように時間を使われていますか?
倉橋:私の時間の使い方を分析すると、最も多いのが単発の社内ミーティング、次いで1on1、そして社内定例会議、社外ミーティングという順番になっています。
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倉橋:特筆すべきは、社内定例会議の内訳ですね。経営会議のような固定的な会議だけでなく、重要プロジェクトの進行中のみ開催される臨時の定例会議も含まれています。一方で、各事業本部の定例会議には意図的に参加していません。そこは私がいない方が良い議論ができ、リーダーシップも発揮されると考えているからです。
このように権限を移譲することで、私自身がより戦略的な課題や、1on1を通じた人材育成に時間を使えるようになっています。
ARR100億円を超えても高成長を維持できる「3つの理由」
前田:最後に、ここまでの総括にもなりますが、SmartHRがARR100億円を達成後も、成長し続けている理由を挙げるなら何でしょうか。
倉橋:その理由は、主に3つあると考えています。
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- 成果にこだわる強い組織の存在
- 組織全体に根付いた権限移譲の文化
- 先回りしてギャップを見定め、先行投資を実行する能力
重要なのは、これら3つが同時に機能していることです。例えば、成果にこだわる強い組織があり、適切に権限移譲ができているからこそ、経営陣は短期的な課題から解放され、中長期の投資に注力できます。
逆に、短期の課題で精一杯のアーリーフェーズの時期に中長期戦略を語っても意味がありません。短期の成果があってこそ中長期の展望が開けるのです。また、中長期の先行投資ができているからこそ、数年後の短期的な課題も減少し、さらなる権限移譲が可能になる。
このような好循環が、SmartHRの持続的な成長を支えており、強さにつながっているのだと考えますね。
(※この記事は「ALL STAR SAAS CONFERENCE 2024」のセッションから抜粋・再構成しています)