これからSaaSビジネスに参入する、あるいは展開中のビジネスを拡張していく上で、巨大な市場規模を持つドメインは魅力的に映ります。一例を挙げれば、医療や介護の領域は40兆円にのぼるといわれ、日本では少子高齢化の影響もあり、さらに拡大の展望です。
こういった市場は巨大であると同時に「複雑性」が非常に高いのも特徴です。プレイヤー、課題、法規制などが絡み合い、一筋縄ではいかない市場でビジネスを成功させるには、いかなる経営マインドや戦略、組織構成が求められるのでしょうか。
そこで今回、エス・エム・エスを創業し、医療・介護業界の事業を数多く手掛けた後、現在はReapra PTE. LTD.(以下Reapra)で産業創造を目指した事業の立ち上げを続ける諸藤周平さん、元VCで医療業界のDX事業を推進するメダップ(MedUp)代表の柳内健さんを招き、「複雑性の高い市場での勝ち方」についてディスカッション。
諸藤さんがエス・エム・エスで事業拡大をした際のノウハウ、そして2021年8月末に6億円を調達し、最も勢いのあるSaaSを手掛けるといっても過言ではない柳内さんの実践例に、経営と組織の戦略を学びます。
聞き手は、ALL STAR SAAS FUNDのマネージング・パートナー前田ヒロです。
複雑性の高い市場でカテゴリーリーダーとなるには
前田:そもそも「複雑性の高い市場」をどのように捉えているか。そこから今日のトークを始めていきましょうか。諸藤さん、まずは伺えますか。
諸藤:複雑性という言葉の定義は人それぞれで、アカデミックな意味合いもあるとは思いますが、私の解釈とReapraの文脈からお話しするならば「世代をまたぐような時間軸」です。プロジェクトに取り組み、事業価値が顕在化して最も高まるタイミングではなく、起業家がやり切って次の世代まで伸ばしていこうとするほどの時間軸ですね。だから、最低でも数十年。若い経営者で「自分は50年走り切れる」と思えるなら、60年は必要になります。
長く時間軸を取ると、いろんなステークホルダーの思惑や現状、現段階では顕れていない課題といった「複雑性」が見えてきます。その上で、今から有望と見通せる領域であり、社会課題としても大きく、構成する因子が絡み合うほど、複雑性も高まります。複雑ゆえに、今は意図して目掛けている人がいないのも重要です。要は、混雑していない領域ですね。
逆に言うと、複雑だからこそ、混雑してないのは必然でもあります。現状ではインセンティブが効かない複雑性の高いマーケットということは、同時にそれを意図して狙いに行けばリターンが大きい場所とも定義できる。これが「複雑性の高い市場」の中身でしょう。
そういった市場は、たとえば「テクノロジードリブンで突き抜ける」や「ファイナンスとパテントを掛け合わせる」といった、ある程度の攻略可能な目途を持ち、一気にプロジェクトベースで走ることが難しい。社会とのコンセンサスが必要だったり、規制緩和を図らないといけなかったり……でも、だからこそ、まだ誰も狙っていないともいえます。
前田:Reapraはそこへフォーカスを当てている印象を受けますが、なぜそういった困難なチャレンジを続けるのでしょう?
諸藤:そういった領域をあえてロングな視点で取り組んでいる人がいない、というビジネス的なオポチュニティが理由の一つです。
株式会社という事業体はショートターミズムに重心がより置かれ、競争が働いていると感じています。最初のフェーズは最もリスク度が高いので、より短期思考になりやすくもなる。ただ、そこでイノベーションを起こせるとインパクトが大きく、プラスアルファも大きく出るから、経済が循環するのも確かです。
あとは、私が「産業の栄枯盛衰」に興味がある、という個人的な事情もありますね。産業は長い時間軸で作られていくものもあると思うんです。ところが、みんながショートターミズムなビジネスに挑んでおり、意図的に長い時間軸で介入して支援する人がいない。そこで私たちが長期的に関わることで、出てくるプラスアルファも得やすいだろうと。あとは、産業の栄枯盛衰を捨象せず、また単純化せずに見ていきたいという動機もあったんですよね。
「長い時間軸で長期的に介入する」というのは東洋的な視点で、「今あるオポチュニティへ飛びつく」というのが西洋的な視点だと捉えています。つまり、前者は日本が取れる数少ないポジションともいえるので、面白みもあるんじゃないかと思っています。
柳内:諸藤さんが事業を経験する中でそのように思われてきたことは、僕も似たような感覚をVCとしての投資経験から得てきました。自分の投資領域は農業、写真、EdTechといった既存産業系が多かったんです。
業界横断的にみると、SaaSの普及もあり負はありながらも概ね解決される道筋が見えてきていると思います。しかし、既存産業においては、ある程度は「あるべき姿」が明らかであるにもかかわらず、その中に課題解決できるプレイヤーがいないか、もしくはプレイヤーが多く複雑だからこそ解決できない課題が多く残っていました。そこで、課題を解決できるプレイヤーになれると、マーケットリーダーとしても大きくなっていけるんです。
だからこそ、複雑性の高い領域は、巨大な会社やインパクトが出せる会社を生める可能性が、むしろ高いんだろうと考えていました。諸藤さんのお話を聞いて、同じような頂上を異なる登り方で目指していたのだ、という感じを受けました。
前田:挑戦するのは難しいけれど、うまくいけばカテゴリーリーダーにもなりやすいわけですね。
その市場に数十年、執着できる“必然”はあるか?
前田:「市場の選び方」の基準を聞いてみたいですね。魅力的に映る条件や手を出さない要因など、具体例も含めて教えていただけますか。
諸藤:選び方には大原則があります。その<yellow-highlight-half-bold>起業家が、数十年、執着できるほどの必然がある場所<yellow-highlight-half-bold>です。理由は何でも構いません。複雑な市場だから、すぐに花が開かなくてもいい。それでも学び続けたい意欲が、これまでの人生から紡げていることが最も重要です。
たとえ執着できても、何かの因子で一気にまくられるようなものは、インセンティブが効かないと思っていて。その因子は、資金調達した企業から追い上げられる、パテントドリブンである、政府などのネットワークがキーになるなどが挙げられます。
その上で避けた方がいいのは、「今は複雑に見えていても単純になる要素がある場所」だと思います。ペインポイントが明確で、プロダクト次第で一気に時価総額が跳ねるとわかるものなら、既存のVCやプレイヤーが手掛けるでしょうから。SaaSであれば、それこそALL STAR SAAS FUNDや前田さんがお手伝いされるような場所になるはず。だから、Reapraとしては手を出さないでしょうね。
前田:わかりやすいです。しかも、お金だけでは容易に逆転できず、時間をかければかけるほど有利になっていく。そのためにも推進する事業家がものすごい熱量を持ち、長く執着し続けなければならない。その状態がリクワイヤメントになってくるのですね。
諸藤:「確かに次世代で有望になりそうだけれど、エコノミクスは回りにくそう」なんていう場所が最も良くて。たとえば、幼少期の経験から脳科学にしか執着できない人がいたら、次世代でそこをビジネス化できないか、とか。そうやって人生と合致したときほど、良いテーマになっていくのかなと思います。
前田:ありがとうございます。柳内さんは最初から医療領域へ進もうと決めていたのですか?それとも、VCとして活動する中で、市場選びの基準ができていったのでしょうか。
柳内:「起業当初はプロダクトは決まらなくてもいい」というのが自分の解釈です。課題がたくさんある市場ならば、まずは市場に入って学習していくことで、大きな事業を作っていける。その解釈が成り立つとすると、「自分が長期間にわたってモチベーションを高く持てる市場はどこか」を決めることが大事です。
僕が医療や病院経営を領域に選んだのは、基本的にはいかに社会へインパクトを出せるかを考え、そこへ自分を配置した結果です。キャリアを照らして鑑みると、電子カルテ事業への投資経験があってドメインも理解していましたし、ベンチャー企業支援やモバイル・インターネット・キャピタルの経営といった蓄積もあり、SaaS投資も多数行ってきました。
病院経営は複雑ですが、市場規模は20兆円。モチベーションを高く持ち、この領域におけるSaaSツールなら他者よりも上手にインパクトが出せるだろうと踏んだのです。
「陳腐なビジネス」から始めよう
前田:諸藤さんが複雑性の高い市場を狙うとき、どのように戦略を組み立てていますか?
諸藤:前提になるのが、Reapraは投資先企業が上場しても基本的には株式を所有し、リターンをエンジョイするのを数十年後に定めているんです。これは自己資金での運営だからこそで、私たちの特殊な文脈になっていますね。
この文脈を持つことの良さは、学習期間を長く取れることです。短期性にこだわらず、起業家や組織が深く広く学習したら、結果的に事業は花開くというところをとにかく探していく。その経験を積むと、案外と経営者の執着心が重要だったことが見えてきた。執着心とテーマが重なるところであるほど、ロングで見れるんですね。
その上で「勝ち方の型」みたいなものはあります。まず、事業領域が「世代をまたぐような社会課題である」。次に、その解決に「経営者が確かな動機を持っているのか」。これらの点はReapraでも強く擦り合わせます。事業領域を話す前に、その人自身を知るためだけに数十時間をかけることもある。何に執着し、どのように学習できるかを知りたいのです。
その次にテーマを決め、「今は魅力的ではなく将来的に有望である市場」が定まったら、長期間の学習を優先すべく、まずはその領域において顕在化している「陳腐なビジネス」から始めます。ここでいう陳腐とは、新規性と創造性がいらない事業です。すでにマーケットがあるけれども環境変化の波を受けにくく、ちゃんとやれば5年ほどで形になるようなもの。
上流や他者のビジネスモデル、あるいはバリューチェーンに侵されることなく、「なんとなく存在し続けれるような場所」から入り、そこでビジネスを強くするための足腰を、経営者のクセも含めて学びます。そして、事業を派生させて伸びていく領域を総花的に取っていく。これを一旦の既定ルートに敷いています。
前田:ただ、最終的に狙いにいく複雑性の高い市場は、だいたいにおいて市場規模が大きいですよね。そこで最初に始める「陳腐なビジネス」は、どのように決めるのですか?
諸藤:基本的にはトランザクションが多くあり、季節性がそれほど影響されないもので、新規性と創造性がいらないものが優先されます。
要は、どこから入っても経営者の事業を作るクセのほうが大きく働きますからね。顕在化しているマーケットで、陳腐でもいいので圧倒的な収益を作って足腰を鍛える。それを最初の1年に「すべきこと」の型にしています。
例を挙げると、「高齢者の旅行」は、実は体験や学習という領域まで含めると、既存の旅行マーケット以上のサイズになる。今後の社会課題が含まれていますし、「シニア向けの体験学習型の旅行」が世代をまたいで数十兆円のマーケットになるというふうに展望できれば、将来性はある。
しかし、今は既存の旅行フォーマットがあり、シニアの介護旅行もある中で、すでに10年ほど環境に変化がない。これほどに動かない切り出されたマーケットがあるならば、ここで一旦は事業を回します。
その事業から得られることは3点。経営者が自分のクセを知り、基本的な「事業を作る」という足腰を鍛えること。キャッシュフローを確立し、次につながる事業への健全な拡張資金を得ること。そして、領域のインサイトをビジネスのフィールドから掴むことです。
結果的に経営者や経営陣が「事業を作る人」と変わり、事業をコントロールする人を育成するところまで実現されていくのです。まずは経営者が自分に向き合って学習することの重要性を感じてほしいと思っています。どうも、経営者の学習が偏っていてチームビルディングに影響したり、安易にファイナンスレバーを引こうとしたりする事態も散見されますからね。
前田:「陳腐なビジネス」には受託仕事も当てはまりますか?
諸藤:当てはまりますが、条件はあります。トランザクションの量が多く、季節性が関係ないのであれば受託も良いでしょう。一方で、トランザクションの量が少ないと学習を回すことにつながりませんから避けたほうがいいです。あくまで目的は学習にありますからね。
メダップは初めから登り方がわかっていたわけではない
前田:SaaSもそうですが、「最初に狙った市場」と「最終的に行き着く市場」が異なることはよくありますが、基本的に成果は積み上げ式です。どのように積み上げるべきだと考えますか?
柳内:事業を続けると、徐々に「こういう登り方があるんだな」と思えてくるはずです。
僕らの病院特化型CRMについても、その課題自身を自分たちが想定してはいなかったんです。僕らが違うものを提案したら、病院側から「いや、むしろ別の部分にもっと困りごとがある」と逆提案され、十分に大きなインパクトを生みそうだった。それを作りながら戦略を立てていったので、初めから登り方がわかっていたわけではないんですね。
続けていくなかで、病院の重要なデータがどんどん入ってきたり、病院のマネジメント層もツールのユーザーとして加わってくださったりして、「病院経営のプラットフォーム」というインパクトがより大きな課題に事業をつなぎ、その山の登り方を見出していった形です。このように、ユーザー側から新規事業の要請や機能改善の要望が積極的に出てくるのは既存産業、中でも病院では特に強く感じられます。それだけ改善や変革への熱量が高いですね。
前田:なるほど。柳内さんに、組織についてもお聞きしたいです。複雑性が高い市場を狙うのは、短距離走ではなくマラソンにも近しいものがあると思います。当然、走り切るための要素も変わりますね。組織としてのこだわりや気を付けるべきことはありますか?
柳内:基本的に複雑性の高い市場を狙うSaaSは、バーティカルSaaSも含めて扱う範囲が広いので、ビジネスモデルも複雑になりがちのはずです。だからこそ、『THE MODEL』みたいに分業していく形が取られているのでしょうから、社員教育やリーダー育成、分業化の負を溜めない組織づくりの創意工夫は重要視しています。
前田:特にバーティカルSaaSだと情報量が多いのと、業界のキャッチアップに時間もかかりますからね。
柳内:そうなんです。業界に入ってから学ぶことのほうが圧倒的に多いので、バーティカルSaaSや既存産業の経験は、そこまで重要ではないのかな、と。それよりは学習意欲が高いこと、業界にインパクトを出すことにモチベートされたり、ユーザーの課題に本心から向き合いたかったりすることを重視しています。
バーティカルSaaSであれば、複数プロダクトを作っていくのでなおさらですね。組織的には、分業化でチームの間にボールが落ちないような仕組みやカルチャー、複雑だからこそ知恵を集めて取り組むチームとしての働き方を重視しています。
前田:諸藤さんから見て、複雑性の高い市場に挑戦する人に、向き不向きはありますか?
諸藤:感覚的にはなりますが、高い地頭やメンターのスキルは一定で必要なのかな、と思うんです。それに合わせて、<yellow-highlight-half-bold>「不透明なところの探索」と「見えた範囲で作りこむ」というバランスを取れている人は活躍しやすい<yellow-highlight-half-bold>でしょうね。一般的にはどちらかに偏りがちですが。
経営者が個人として視座を上げていくと、その視座に加えて、スキルを上げていくことがベンチャーの場合はクリティカルですよね。そう思うと、何か失敗があったときにも、「社員のこの人が失敗だった」というより、「全て自分が失敗を引き起こしていた」という意味合いが大きい。
具体的には、起業したばかりなら動機さえあれば構わないけれど、次の段階ではモチベーションを高く持って行動する人がいる一方で、行動していない人も出てくる。フェーズによってデコボコしているそれらの人員は、実は経営者が進みたい方向を可視化してないだけで、社員がわかっていないことも多いのです。
そこでコンサルに相談なんてして、「この人なら整理するのが得意だから」と事業部長をアサインしてみたら、構図を理解することと事業を推進することは全くイコールではないことをやっと知る。そこで経営者としての原始的な失敗を感じ取るでしょう。
この文脈も踏まえると、ベンチャーの場合は「探索」と「作りこみ」という不透明なものを触りにいく行為と、いま見えている範囲をちゃんと可視化していく動きを、関連する人とのコミュニケーションを伴いながらやっていくのが大事です。その文脈で一定程度のフィルタリングをかけるのが、失敗からの学びではあるのかな、と思っています。