2022年以降、金融市場のSaaS企業評価は大きく変化し、成長一辺倒の様相から「成長と利益のバランス」へとシフトしています。この新たな局面で、未上場スタートアップも長期的な企業価値向上を見据えた戦略が求められています。
そこで今回は、財務とプロダクトの両面から、コーポレートファイナンスの基本に立ち返りながら、企業価値評価の考え方や、ファイナンス観点から見たSaaS企業経営の要点を解説いただくべく、テックタッチ株式会社 取締役 CFO / CPOの中出昌哉さんをお迎えしました。
中出さんは野村證券でのM&A経験、MIT Sloanでの MBA取得、そしてカーライル・グループでのプライベート・エクイティ経験を重ねて、テックタッチへジョイン。Webシステム画面上で操作に合わせてナビゲーションを表示するデジタルアダプションプラットフォーム(DAP)「テックタッチ」の提供を通じて、システム利活用・定着の支援および企業におけるDX推進をサポートしています。
長期的な企業価値向上のための売上構築やコストコントロールなど、SaaSビジネスが金融市場で評価されるための具体的な戦略を紹介。さらに、日本の金融市場特有の力学や、時価総額に応じた投資家層の変化、評価される財務KPIの違いなど、経営者が押さえるべきポイントについて伺います。
SaaS企業の「真の価値」とは?
中出:今回のテーマは「逆算のファイナンス戦略」ですが、少し難しい話題も含まれると思います。ただ、現在の市況下で戦略を立てる際に、ファイナンスのプロでなくても理解しておくべき基礎的な部分も交えてお話しできればと思います。
中出:まず、マーケットの状況からお話ししていきましょう。こちらはアメリカの資料です。左上を見ていただくと、ユニコーン企業の出現率が分かります。黄色い部分が新しくできたユニコーン企業、青い部分が残っているユニコーン企業、そして「Graduated」と書かれた部分がM&AやIPOでイグジットした企業を示しています。
ユニコーンという言葉は元々「幻の生き物」という意味でしたが、近年は急激に増えています。本来なら、ユニコーンになった企業はスムーズに「Graduate」していくはずですが、実際にはそうなっていない状況が見て取れます。
これは、未上場時のバリュエーションと、上場時のバリュエーションにズレが生じはじめていることを示唆しています。経営者としては、このような状況下でいかにして企業をスタックさせないか、考えなければなりません。
湊:バリュエーションのギャップが課題になっているわけですね。
中出:実際、グロース市場における株価のパフォーマンスは芳しくありません。上場時に評価が下がるケースも多く見られます。
ここで興味深いのが、機関投資家の見方です。ヘッジファンドやロングオンリーの投資家に聞いてみると、売上成長率30〜40%以上がバリュエーション検討の分水嶺になるようです。それを下回ると、PSR(株価売上高倍率)ではなくPER(株価収益率)で評価せざるを得なくなり、利益水準が重要なマルチプルの決定要因になると言います。
また、「PSRは好きではないけれど、他にバリュエーションの評価方法がないから仕方なく使っている」という声も聞かれます。これらの声の裏にあるロジックや、企業として準備すべきことについても、今日はお話ししたいと思います。
バリュエーションを高めるという「誤った正解」
湊:投資家の視点からSaaS企業を見ると、成長性だけでなく収益性も重視されるようになってきているわけですね。
中出:その通りです。ここで注意したいのが、近頃、本当に耳にする「甘い話」です。例えば「時価総額500億円で上場したい。PSR10倍で仮定すると50億円の売上が必要だが、どうやって作ればいいか」とか、「シリーズXでのバリュエーションとして、このPSRは妥当か」といった相談がよくあります。
これらは間違った考えではないのですが、重要な視点が欠落しています。それを説明するために、ちょっと考えてみてほしい例があります。
あるビジネスを想像してください。現在の売上が100万円で、コストが150万円かかっているとします。つまり、年間50万円の赤字です。ここで、100万円の広告宣伝費を使うと、50万円の売上が出るとします。
では、広告を3回打つと、売上250万円、コスト450万円で、利益はマイナス200万円。10回打つと、売上600万円、コスト1,150万円で、利益はマイナス550万円となります。
普通に考えれば、広告を1回も打たないのが正解です。しかし、もしPSRだけが正しい評価基準だとすると、最も売上の大きい「広告10回」のケースを選ぶことになってしまいます。売上600万にしてバリュエーションを最も高めることが、正しい選択とされてしまう。これは明らかに間違った選択ですよね。
湊:PSRだけで判断すると、実際には会社の価値を毀損しているにもかかわらず、バリュエーションが高くなってしまうと。
中出:この例は極端に単純化していますが、現実にはもっと複雑な要素が絡んだものを考えなければならない話なんですね。
では、そもそも論に戻って、「株式会社とは何か」という本質から考えてみましょう。株式会社の歴史を振り返ると理解しやすいと思います。元々、大航海時代に欧州ではじまった仕組みでは、出資者は無限責任を負っていました。つまり、事業が失敗した場合、出資額以上の負債も負わなければならなかったのです。
これではリスクが大きすぎて、なかなか資金が集まりません。そこで考え出されたのが、有限責任制度です。出資額以上の責任は負わないという約束で、さらに事業の継続を前提に株式という形にし、途中で株式を売買することができるようにしました。さらに小口の投資も可能にしたことで、多くの人が投資するようになったのです。
この歴史から、株式会社の本質が見えてきます。つまり、投資家からお金を預かり、その人たちにどうやって富を分配するかが根本的に大切なのです。私は「利益を出して株主に還元する」というのが株式会社の基本的な使命であり、その生い立ちを考えても、絶対的に正しいものであると信じています。
スタートアップもM&Aも根本的な考え方は同じ
湊:スタートアップの場合はどうでしょうか?短期的な利益よりも成長を優先する場合も多いですよね。
中出:基本的な考え方は同じです。ただし、スタートアップの場合、現時点では利益を出せなくても、先行投資によって将来的に大きなリターンを生み出す可能性があります。「投資家に今は我慢してもらうけれど、将来的には大きく返す」という約束なのです。
そして、利益を出すタイミングは、市場の大きさ次第で変わるべきで、市場が超巨大であれば利益を出すタイミングは全然後で問題ありません。逆に、市場がそこそこであればしっかり高利益体質にするタイミングを早くするということが重要だと思っています。
未上場の観点では、VCの場合は5年から10年という視点で投資しますが、IPO後の機関投資家は1年から3年程度の比較的短期の視点で見ています。そのため、IPO後は比較的早い段階で利益の再分配や株価の上昇が求められます。
これは市況によっても変わります。2020年頃は5年程度の赤字でも許容されましたが、現在では1年から2年で利益を出すことが求められるようになっています。このように、市場環境によって求められる時間軸が変化することも理解しておく必要があります。
湊:M&Aの観点から考えると、今までの議論はどのように整理できるのでしょうか?
中出:M&Aもほぼ同じ考え方で評価されます。基本的な原則は変わりません。
湊:将来の利益ベースでM&Aの価値や買収金額が設定されるということですね。
中出:その通りです。ただし、M&Aの場合は「シナジー」という要素が加わります。例えば、ある会社を買収した後に「我々が経営すれば、この会社は40億円の利益を出せる」と判断した場合、その40億円という数字を基にPERやDCFで価値を算出します。
原則的には、シナジーがまったくない世界であれば、先ほど説明した考え方がそのまま適用されます。しかし、事業会社が買収を行なう場合、単なる投機ではなく、「一緒にこの事業を伸ばせる」「統合によってこういうことができる」といった理由で買収を行ないます。そのため、将来の利益や売上が大きく伸びると予測し、それに対して倍率をかけたり、キャッシュフローを割り引いたりして価値を算出するのです。
「バリュエーションのメトリクス」を押さえよう
湊:では、実際のところのバリュエーションについて、どう考えるべきでしょうか。
中出:「バリュエーションのメトリクス」を用いたいと思います。これは後に続く説明の根幹となる部分なので、ぜひしっかり押さえておいてください。主に3つの指標があります。
- PSR(株価売上高倍率):時価総額÷売上高
- PER(株価収益率):時価総額÷当期純利益
- DCF(割引キャッシュフロー法):会社が生み出す将来のキャッシュフローを予測し、現在価値に割り引いて合算
これらの指標に、どの期の数字を使うかを示すFY(Fiscal Year)を組み合わせて使います。例えば、FY+1は来期、FY+5は5年後の数字を使うということです。
具体例を挙げると、ある会社の今期の売上が100万で、PSRを5倍とすれば時価総額は500万になります。また、来期の利益が30万で、PERを20倍とすれば時価総額は600万になります。DCF法で将来のキャッシュフローを予測して計算すると700万になる、といった算定からディスカッションがはじまります。
これらの方法を組み合わせて、機関投資家やVCは企業価値や株価を判断しています。ただ、未上場企業の場合は利益が出ていないことが多いので、主にPSRが使われます。このような基本的な考え方が、バリュエーションの基礎となっています。
CFOの手腕が問われるバリュエーション戦略
湊:上場後のマーケットには様々なタイプの投資家がいますよね。個人投資家から機関投資家まで、日系や海外系、ヘッジファンドやロングオンリーなど。これらの投資家によってバリュエーションの見方は異なるのでしょうか?
中出:現在日本では、海外の機関投資家がIPO時のプライスリーダーになることがスタンダードです。彼らは多面的に企業を評価します。例えば、足元の期は利益が出ていなくても問題ないとし、売上高の5倍程度でバリュエーションを行ないます。
同時に、次期の利益予想の20倍や30倍でクロスチェックを行なったり、さらに次の期の利益予想でも検証したりします。DCF法も併用しながら、これらの方法で算出された価値が整合的になるポイントを探ります。
この海外機関投資家の判断が、他の投資家にも影響を与える傾向にあります。例えば、直近でIPOをしたタイミーの株価形成を見ても、このような考え方が反映されていると推測できます。
湊:では、どの期の業績を基準にバリュエーションを判断するかは、企業側から提示するのでしょうか、それとも投資家側から求められるのでしょうか?
中出:基本的には投資家側からのニーズ次第で決まるところが多く、ここでCFOの手腕が問われるため、説得力のある数字を示すことが重要です。
例をあげて説明しますと、売上成長率が30%だと伝えた場合、投資家は「では、足元の売上の何倍で評価しようか」と考えるでしょう。しかし、もし売上成長率を100%で見せることができれば、もちろん「今期の利益でバリュエーションするのは適切ではない。もう少し先の利益を見るべきだ」という判断につながる可能性が高くなります。
つまり、売上成長と利益成長の両方が重要で、なるべく将来の期を基準に評価してもらえるよう努力する必要があります。逆に、売上成長率が10%程度だと、足元の利益に基づいた厳しい評価になりかねません。
これは先ほど触れた「売上成長率が30%から40%以上」という基準にも関連しています。この水準を超えていれば、より将来を見据えた評価を得られる可能性が高まります。
また、単に数字を示すだけでなく、その成長率や利益を確実に達成できるという確信を投資家に持ってもらうことも大切です。これが、よく言われる「エクイティストーリー」の本質でしょう。将来の明るい展望を説得力を持って示せれば、より有利なバリュエーションにつながる可能性があります。まさにCFOの腕の見せ所なわけですね。
「PSR脳からの脱却」が強いスタートアップを支える
湊:では、スタートアップの成長段階に応じたバリュエーションの考え方について、さらに詳しく教えていただけますか?
中出:具体例で説明しましょう。次のスライドを見てみてください。青いバーが売上高、黄色いバーが利益を示しています。
仮に、2年後に上場を目指す会社があり、売上高は100で利益はマイナス30だとしましょう。当然、赤字の段階では利益ベースでのバリュエーションは難しいため、投資家は売上成長率と売上高をもとに評価します。これがPSR(株価売上高倍率)と呼ばれるものです。この段階では「どれだけ市場を獲得できる可能性があるか」が判断基準になります。
未上場企業、そして投資をするVCの期待値としては、売上成長を追求することが正しいアプローチです。最終的には、市場をドミナントし、長期的に大きな利益を生み出すことを目指します。しかし、上場のタイミングでゲームのルールが変わります。ここをしっかり理解しないと、バリュエーションが崩れる可能性があります。
市況が良い場合、投資家はより遠い将来の利益を基準に評価する傾向があります。「今は利益を出さなくても良い。その代わり、PSRで評価しよう」という具合です。これは、投資家が積極的に投資先を探している状況であり、ある種の沸騰状況の経済を反映しています。
一方、市況が悪い場合は、足元の利益や次期の利益予想を重視する傾向が強まります。例えば、次期の利益予想が20億円あるなら、30倍で600億円という具合です。CFOの役割は、この状況下でも有利なバリュエーションを獲得できるよう舵取りすることです。
利益を適切に出しつつ、長期的な成長性も示す。特にシリーズが進むほど考えなければならないことです。最近の日本市場では、未上場時と上場時のバリュエーションの差が大きすぎるケースが目立ちます。これが「ダウンラウンドIPO」や「ゾンビ企業」と揶揄される状況を生んでいるわけです。
このような状況を避けるためには、市場の大きさを見ながら、どのタイミングで利益を出すのかを検討すると共に、そのタイミングではルールチェンジがおこるので、上場後のバリュエーション基準を意識した経営が必要になってきます。
湊:具体的に、どのような取り組みが必要になるのでしょうか?
中出:端的に言えば「PSR脳からの脱却」です。主に2つのポイントがあります。
1つ目は、徹底的な事業計画の策定。単なる数字合わせではなく、自分の魂が憑依したような、本気で達成を目指す計画を立てることです。足元の1年だけでなく、3年以上先も見据えた長期的な視点で取り組みましょう。
売上もコストも、マクロとミクロの視点を行き来しながら精緻に計画を立てます。市場規模、競合状況、STP、GTM戦略、市場浸透率などのマクロ要素と、MRR、単価、顧客数、チャーン率などのミクロ要素を綿密に検討します。
テックタッチでもコスト管理は細かく見ています。現在でも月別に項目別、種目別、サービス別で1万円以上の支出であれば私がチェックしていますね。テックタッチは予実管理のヒット率には強みを持っていて、シリーズAからほぼ外していないのですが、こういった管理をしていることも要因の一つだと思います。
2つ目は、多様なバリュエーションのメトリクスへの対応です。PSR、PER、DCFのどの方法でも適切な評価が得られるよう、事業構造を整えることが重要です。これにより、市況の変化に左右されにくい強い会社になれます。
アメリカではPSRで押し通して、市況が悪くなるとダウンサイジングで大量リストラを実施する戦略を取るスタートアップもあり、国としての強みがあるとは思うのですが、日本はそこの硬直性が良くも悪くも高い。要はプレースタイルに違いがあり、なおかつ資本市場で戦っていることも踏まえて、常に複数のレバーを用意しておくことも大切です。
例えば、売上が計画通りに行かなかった場合のコスト削減策レバーをいくつも準備しておく。逆に、コスト削減の余地を持っておいて、必要なタイミングで売上拡大へ振り向けることもできるようにしておく、といった形です。
さらに、キャッシュフロー改善のための前受金の獲得や、MRRだけでないプロフェッショナルサービスの展開など、様々な角度から事業構造を見直し、改善策を考えましょう。特に直近2〜3年の傾向として、SaaSスタートアップは赤字上場が難しい状況が続いています。PSRだけに頼ったバリュエーションでは、上場のハードルを越えるのが困難です。そのため、しっかりとしたプランニングが不可欠です。
CPOを兼任している理由
湊:未上場時と上場後で、企業が注力すべきポイントが変わってくるというお話でしたが、さらに教えていただけますか?
中出:未上場時には、やはり売上高成長率が最重要のキーになります。そのために、常に詳細な分析と予実管理を行なっています。セールスチームと連携しながら、市場浸透率の分析なども行ない、達成可能な目標を設定しています。
一方、コストに関しては、未上場時に過度に利益にこだわる必要はありませんが、長期的な視点は持つべきです。私がおすすめするものとしては、長期的なプランニングによる利益創出を確認すること。例えば、品目単位のチェック、固定費と変動費の分解など、Excelで3,000行から4,000行に及ぶような超詳細な計画を作成しています。これにより、「この程度の売上になれば利益が出る」といった見通しを持つことができます。
私はシリーズAの段階で予測を立て、ほぼ的中させた経験があります。常にイメージを持ち、「売上高がこれくらい達成したらケースAで進行、さらに市場を席巻できるならケースB、売上高が予測より伸びなければケースC」といった複数案を持っておく。ここもCFOやCxOの力量が試されるところではないかと思っています。
さらに、ユニットエコノミクスの分析も重要です。ただし、多くのCFOが陥りがちな罠として、「Rule of 40」といった考え方や利益創出に囚われて局所最適になることです。セールス・マーケティングのCACやCAC Payback Periodだけを見たり、全社的なマジックナンバーだけを重視したり。しかし、SaaS企業の最大コストはプロダクト開発であることが多いです。そのため、プロダクト開発のコストも含めた全体的な視点が必要です。
私がCPOも兼任しているのは、このような理由からですね。CFOやCEOは、CPOやCTOとも密に連携し、売上目標、コスト目標、プロダクトロードマップを総合的に検討する必要があります。セールスやマーケでいうCAC Payback Periodのような指標を開発段階から当てはめられると良いのですが、ここは私も勘案しているところです。
湊:上場のタイミングが近づいてくると、利益への注目度が高まりますね。その準備はいつ頃からはじめるべきでしょうか?
中出:上場直前になって慌てて利益を出そうとするのではなく、かなり早い段階から準備をはじめるべきです。常に将来を見据えた計画を立て、上場時には「計画通りに利益が出ている」という状態を目指しましょう。ただし、利益を出すタイミングや、どの程度攻めの経営をするかは、市場の状況によって大きく異なります。これは永遠のテーマとも言えます。
市場の規模とプレイヤーの数によっても、戦略を変える必要があります。例えば、市場が非常に大きく、自社プロダクトに絶対的な自信がある場合は、利益を後回しにしても構いません。その代わりにプロダクトの差別化と組織の強化に注力し、優秀な人材を多く採用することで市場を席巻する戦略を取ります。セールスフォースなどがこの戦略を取っていると言えるでしょう。
一方、市場が中規模から小規模の場合、特に日本では競合が少ないケースが多いです。この場合は、売上を着実に伸ばしながら、しっかりと利益を出すことにフォーカスすべきだと思います。小さな市場で大規模投資をして高コスト体質になってしまうと、ダウンサイジングもなかなかできず、後々苦しくなる可能性が高いからです。
市場規模に応じて「10年間利益を出さずに攻める」「3〜4年攻めて、その後に利益を出す」など、戦略を変える必要があります。重要なのは、CxO全員でこの方針を共有すること。往々にして、起業家は市場を大きく見積もりがちです。それ自体は起業家精神として理解できますが、CFOを含む経営陣全体で冷静に市場を分析して話し合うべきですね。
SaaS企業の市場分析と、適切な上場戦略を考える
湊:市場規模の分析方法については、どういったアプローチをとりますか。
中出:まず、よく見かける市場分析の方法に問題があると感じています。私が「超(兆)ハッピースライド」と呼んでいるものですが、「IT支出全体が20兆円で、そのうち5兆円が我々の市場で、その中の1兆円が直接のターゲット市場」といった具合に、大きな数字を並べる。しかし、これは日々の経営や予算策定に直接役立つものではありません。投資家を喜ばせるためだけのスライドになってしまっている場合が多いのです。
湊:では、より実用的な市場分析の方法とは?
中出:私が推奨するのは、より具体的で実践的なアプローチです。例えば、市場をセグメントA、B、Cに分け、それぞれの顧客数、単価、潜在的な市場規模を分析します。
具体的には、「セグメントAには1,400社の潜在顧客がいて、現在の最大ARRが1億円。今後のプロダクト開発により1.5億円まで上がる可能性がある」といった具合です。リアルな数字を入れてみることで、日本は社数そのものはそれほど増加せず固定だと捉えることができますし、より現実的な市場規模が見えてきます。「単価を1億円から1.2億円に上げるためには、どのようなプロダクト戦略や価格戦略が必要か」といった具体的な議論もできるようになります。このような具体的な分析のほうが、投資家にも響くという体感があります。
また、この分析は投資家向けだけでなく、日々の経営にも活用しています。例えば、「現在200社の顧客がいるが、1,200社の潜在顧客がいる中で、どのようなペースで拡大していけるか」といった具体的な戦略を立てる上で役立ちます。シンプルに言えば「社数に単価を掛けたものが市場」ですから、できていないことをあぶり出しつつ、常にSOM(獲得可能な市場)を広げていく意識も働きます。
投資家から「セグメントAが君たちのメインセグメントだけれど、日本には1,200社しかいないだろう。3年後にはセールスの余地がなくなるのでは」と言われても、「メインセグメントでもまだまだ余地はあり、6年間は問題ない見込みです。ただその後は厳しくなるかもしれないので、今からセグメントBを開拓していきます」と返せれば頼もしく映るはずです。
投資家の目にも「この人たちは導入社数を本気で伸ばそうとしている」「現在の単価感はストレッチがかかっているのだな」と見えたほうが、経営の力量をちゃんと伝えられる。それに、経営の力量が高い方にもちろん投資したいと思うはずですから。
湊:そういった分析は、上場後の成長戦略にも影響しそうですね。
中出:そうですね。上場後の機関投資家は通常1〜3年程度の投資期間を想定しています。彼らが最も気にするのは、2年後の売上構成です。「今の売上がどのようなコンポーネントに変化しているか」「急に成長率が20%に落ち込んでいないか」といったことを重視します。
さらに興味深いのは、現在の投資家は2年後の投資家のことまで考えているということです。つまり、「2年後の投資家が、さらにその2年後にも成長が続いているか」を気にしているのです。結果として、4年後くらいまでの成長性を示す必要があります。
そのため、少なくともその期間までの市場規模や成長戦略をリアルに示すことが重要です。もし、市場が小さいと判断した場合は「ニッチだがハイマージンなプレイヤーである」といった説明も効果的です。つまり、売上とコストのバランスを取りながら、市場に合わせた経営戦略を立てることが求められます。
湊:市場規模の重要性についてはどうお考えですか?
中出:市場規模、特にSOMは非常に重要です。私も経営者として実感しているのですが、ターゲットとする市場の大きさによって、会社の成長上限がほぼ決まってしまいます。どんなに頑張っても、小さな市場ではGAFAMのような巨大企業にはなれません。
ですから、自社が参入する市場は経営者にとって所与のものとして捉え、その市場の理解を深め、それに合わせて経営戦略を立てることが重要です。
湊:IPOの規模についてはどうでしょうか?Small CapとLarge Capの違いは?
中出:Large CapでIPOできればそれに越したことはありません。ただ、これは市場規模にほぼ決定されるもので、CFOやCxOの力量だけではどうにもならない部分が多いですね。また、日本ではM&Aの機会が少ないことも考慮する必要があります。
個人的な意見ですが、時価総額100億円以下でのIPOはお勧めしません。なぜなら、上場後どんなに頑張っても株価が上がらず、苦しい状況に陥る可能性が高いからです。これは、小規模すぎると機関投資家が投資してくれないという問題があるためです。一般的に、時価総額200〜300億円、オファリングサイズ(公募・売出し規模)が100億円程度はないと、機関投資家の投資対象にならないと言われています。もっと上の数値をいう人も正直多いです。
ただ、小規模でIPOしたSaaS企業であっても、現在は大きく成長しているケースもあります。ただし、小規模IPOには注意点があります。あるSaaS企業はIPO直後は株価がほとんど動きませんでした。その後、利益が1.8倍、さらに3倍と急成長したタイミングで初めて、ようやく株価が上昇し、しっかりした銘柄として認識されるようになりました。
このように、上場後に大きな成長を示すことは非常に難しいものです。ですので、やはりある程度の規模を確保してIPOし、その後も着実に利益を伸ばしていきながら、機関投資家と向き合っていくことが、戦略としては望ましいと考えています。
市場規模に応じた、適切な財務コントロールを目指す
湊:市場規模に応じた財務コントロールについて、どう考えれば良いでしょうか。
中出:3つのケースを考えてみましょう。それぞれ「Jカーブ」で表現できます。
1つ目のケースは、市場が実際には小さいにもかかわらず、大量の資金を投入して急激に売上を伸ばそうとすることです。結果として黒字化できず、PSRの減速でイグジットも難しくなってしまいます。最も避けるべきシナリオといえます。
2つ目は、比較的小さな市場でのアプローチです。大きく掘り下げずに、適度に市場を開拓し、早めに黒字化を目指します。ニッチトップとなって安定したキャッシュカウを作り、このキャッシュを使って他のビジネスに展開していく戦略です。個人的には、多くのSaaS企業にとってこれが理想的なアプローチだと考えています。
3つ目は、巨大な市場が見込まれる場合です。この場合、新規ビジネスの開拓よりも、既存市場を徹底的に掘り下げることに注力します。例えば、タイミーのようなプラットフォーム企業がこれに該当します。急激に成長し、短期間で大きな黒字化を実現するパターンですね。
湊:つまり、自社が置かれている市場環境によって、適切な戦略が大きく変わると。
中出:自社のケースを正確に見極め、それに応じた投資と成長戦略を立てなくてはなりません。ただ、特にSNSなどを見ていると、大規模な資金調達や従業員の大量採用が「かっこ良く映る」というのは、少し注意をしたいところです。実際には自社の状況に合わせて、粛々と、自社の成長にフォーカスすることをお勧めします。
中長期的な戦略を考える際に欠かせない、4つの観点
湊:3年から5年の事業計画を立てる際、何を軸に検討をはじめるべきでしょうか?例えば、売上成長率30%から40%を維持するという前提で逆算する、あるいは類似上場企業の売上高から逆算するなど、実際の組み立て方のイメージを詳しく教えていただけますか?
中出:様々な要素を考慮して事業計画を立てています。
まず、類似企業の分析は欠かせません。テックタッチはアメリカにある同業他社を参考にしています。彼らの歴史を徹底的に調べ、すべての数字を拾い上げます。特に成長率の推移は重要で、多くの人が陥りがちな誤りとして、50%成長を単純に毎年続けると考えてしまうことがあります。実際には、売上規模が大きくなるにつれて成長率は徐々に低下していきます。こうした類似企業の動向は参考指標となります。
次に、自社における過去の成長率も見ています。これまで100%成長を達成していた場合、急に50%へ落とすのは現実的ではありません。80%を目指すなど、段階的に調整していくことを考えます。ここでも寄り引きで数字を見ながら考えるのが良いでしょう。
また、市場分析からリアルな数値へ落とし込んで考えるのも欠かせません。結局、売上を出すためのリード組成を考えると、セグメント別の詳細な市場分析を基に「まだまだ成長の余地がある」といった判断をします。そこでは具体的な数字のブレークダウンも行ないます。
例えば、MRR3,000万円という目標があれば、それを「単価30万円の顧客100社」というように分解します。そして、その100社を獲得するために必要な商談数、リード数を逆算し、それが現実的かどうかを検討するのです。これにより、GTMを含めたマーケティング戦略やセールス体制の強化など、具体的なアクションプランも見えてきます。
長期的なビジョンも大切です。「5年後にどのような姿を目指すのか」という大きな目標があれば、そこから逆算して各年度の目標を設定します。ただし、社内には少し高めの目標(アップサイド)を示し、実際の計画ではより現実的な数字を採用するというアプローチも有効です。
湊:そこはCFOやCxOが主導して立案すべきでしょうか?
中出:そうですね。事業部門に任せると、どうしても保守的な数字になりがちです。長期的な視点を持ち、アンビシャスな目標を設定できる立場の人間が計画を立てるべきでしょう。その上で、足りないリソースを特定し、必要に応じて資金調達や人材採用の計画を立てていくのです。
湊:中出さん、今日は様々にお話しくださり、ありがとうございます。最後に一つだけ!よく私も聞かれるのですが、事業計画を作成するツールは、Googleスプレッドシートが最適でしょうか。他に良いツールはありますか?
中出:私は自称「Excel大臣」なので、もっぱらExcelです(笑)。
湊:私も「Excelは悪ではない」派閥なので安心しました(笑)。今日はありがとうございました!