効果的な営業アプローチは、SaaS企業の成長において重要な戦略でありながら、多くの経営者が頭を悩ませる課題です。
特にARR1億円を超え、PMFを達成し、シリーズAを経てさらなる成長を目指す段階で、「どのように営業を進化させるべきか」「なぜ成長が鈍化するのか」という問いに直面します。正解がなく、自社の状況に応じた戦略が求められるこの領域で、多くのスタートアップが試行錯誤を続けています。
そこで、B2Bセールスの専門家として、数多くのスタートアップをサポートしてきた向井俊介さんに、SaaS企業の成長を阻害する共通の課題と、それを乗り越えるための具体的なアプローチを解説いただきました。
ALL STAR SAAS FUNDのパートナー・神前達哉との対話を通じて、SaaSスタートアップが「次の成長フェーズ」へ進むために押さえるべき営業戦略の要点を明らかにします。さらには、現在時点の生成AIが営業に与える影響や、上手に付き合う方法も聞きました。
成長鈍化の原因は「ターゲットと営業手法のミスマッチ」
神前:PMFを達成して、一定のセグメントのお客さまに喜ばれるプロダクトを作り、順調に伸びてきたスタートアップが、ある時点から売上成長が鈍化するケースを見かけます。
当初は少ない人材でプロダクトを開発し、特定のお客さまのために価値提供していたところから、資金調達を経て売上達成プレッシャーのなかで、「誰のためにプロダクトを作っているのか」「誰を幸せにしたいのか」という視点がファジーになってしまう。これが成長鈍化の一因なのではと考えています。向井さんはどのようにお考えですか?
向井:多くのスタートアップに共通している点として、初期フェーズでは小規模企業向けにマスマーケティングを行い、「それ欲しかった!」と反応する顕在ニーズを持った層に対して、インバウンド型でビジネスを展開してきたパターンがあります。
その後、ターゲット企業のサイズを徐々に上げていく。つまり、スモール企業からミッドマーケット、さらにはエンタープライズへと移行していきます。その戦略は良しとしても、成長が鈍化してしまう原因の一つは、ターゲットが変わっているにもかかわらず、商売の考え方や進め方を変えていないからだと考えています。
日本では企業規模が大きくなればなるほど企業数が激減します。小規模企業だと50万社もあった市場が、従業員数500人以上になると数万社、上場企業なら数千社になってしまう。さらに特定業界に絞れば数百社しかいないケースもあります。そんな状況で、初期段階と同じように1対多のマスマーケティングによって抽象的なメッセージを発信し、「確率論的に何人かが反応してくれれば良い」という手法を続けている企業が少なくないのです。
「お客さま不在」の営業思考から脱却する
神前:そういった手法を続けてしまう企業に共通点はありますか?
向井:創業期には各ファウンダーの現場経験から「誰の、どんな負を解消したいのか」という点が明確なことが多いです。しかし、成長過程で営業組織が形成されはじめた時期に、営業担当者やマネージャー、あるいは経営層へ「誰がお客さまなのか」と質問すると、大きく2つの問題点が見えてきます。
一つは「組織体」をお客さまとして捉えている回答が出てくること。「私たちはこの規模の、この業界の企業に向けてビジネスをしたい」とセグメントの話をするんです。それはただのセグメントであり、顧客ではありません。顧客像がまったく立っていないと感じます。
もう一つは、同じ企業内にもかかわらず回答にバラつきが生じること。営業担当者、ミドルマネジメント、経営層で顧客像やペルソナが異なるのです。数十人規模のアーリーフェーズのスタートアップにおいて、「誰がお客さまなのか」という問いに対してすら統一した解釈がないということは非常に問題ではないでしょうか。
神前:組織内で顧客像に統一感がないという問題は、確かに私も見かけることが多いですね。その結果、それぞれの営業担当者が異なる顧客像に向けてコミュニケーションを取ることになり、非効率も生じてしまう。
向井:まさにその通りです。マーケティング戦略の出発点とも言えますが、商売をする際には「顧客が誰か」を明確にすることからスタートします。しかし、営業という仕事になった途端に「何をどう売るか」という思考に陥りがち。このようにお客さまを理解するという観点が欠け、「お客さま不在の思考回路」になっていることが多くの企業で課題だと感じています。
「ポジティブワード」を押し付ける営業から脱却する
神前:「お客さま不在の思考回路」のほかにも、よくある課題はありますか。
向井:売る側のエゴを押し付けるようなコミュニケーションが目立つケースが多いですね。
現代社会では物とサービスはあり余っており、お客さまは何かを購入しなくても、成長鈍化や停滞はあるかもしれないけれど、即座に潰れるようなことはない。特に日本企業では解雇規制もあって、従業員が変化や革新に積極的に取り組む動機が少ない事情もあります。
そんななかで「この状態を目指すべきだ」「この負を解消すべきだ」と言ったり、「変革」や「イノベーション」といったポジティブワードで背中を押したりしても、お客さまからすれば「そんなに困っていないんだけど……」「新しいツールを導入して失敗したら評価に響く」といった反応が返ってくるのは自然なことです。
創業期に作った「キャッチーで耳の痛いメッセージ」は、アテンションを引く意味では効果的です。しかし、同様のコミュニケーションを営業活動で1対1や少人数の場で展開するのは、お客さまの業務や評価の仕組みを度外視した行為といえるでしょう。お客さまを置いてけぼりにするようなマーケティングや営業活動をしている企業は、ぜひ立ち止まって考えてほしいと思います。
「お客さまの真の課題」を捉えるための2つのアプローチ
神前:そのうえで「お客さまの真の課題」や「リアルな問題」を捉えられないことも原因ではないかと思います。それらを捉えるために必要な姿勢や取り組みはありますか?
向井:2つの観点から話しますと、一つはコミュニケーションのベクトルを変えること。アーリーフェーズのスタートアップでは「世の中になかったもの」を提供するシーンが多いと思います。そこでは「今までできなかったことができるようになる」というメッセージに反応するイノベーターやアーリーアダプターがターゲットになります。
彼らは業務改善に対して意識が高く、新しいサービスの情報にアンテナを張っています。そういった層には「今までできなかったことができる」というプロダクト基点のコミュニケーションは確かに効果的です。
ところが、より大きな市場を狙うには、そこまで意識の高くない「普通の人たち」、つまりはアーリーマジョリティ以降の層に届ける必要があります。彼らは積極的にリスクを取ろうとしませんが、業務改善の必要性は理解しています。こういった層には売り物起点ではなく、お客さまの業務上の問題から因数分解していくアプローチが必要です。
ここで重要なのは、お客さまが抱える問題は複数の課題によって構成されているという視点です。スタートアップが提供するソリューションは特定の課題を解決するものであって、問題全体を解決するわけではないことが多いのです。
たとえば、SmartHRのケースで考えてみましょう。人事労務の領域からはじまり、人事全般へとプロダクトを拡大していきました。人事労務担当者にとっては、年末調整や入退社手続きが簡単になるというダイレクトな価値がすぐに理解できます。しかし、企業規模が大きくなり、決裁者が人事管掌役員クラスになると、人事労務はワンオブゼムの業務にすぎません。
このとき、「なぜ今、このタイミングで、労務領域に投資すべきなのか」という合理的な理由が必要になります。さらにコーポレート全体を統括する担当取締役からすれば、「人事より先に経営企画や法務が優先では?」という視点も出てくるでしょう。
<yellow-highlight-half-bold>「お客さまは誰なのか」を考える際、「誰の首を縦に振らせることで、誰のどんな不満を解消するのか」という視点が重要<yellow-highlight-half-bold>です。この顧客の最初の定義ができていないと「私たちは誰に対して商売をするのか」という点が不明確なままになってしまいます。すると、機能やプロダクトの良さの話だけで下から上がっていくようなコミュニケーションになりがちです。
企業規模が大きくなればなるほどステークホルダーも増えるため、明確に「誰を」買う人として定め、その人たちが「なぜ買うのか」というストーリーをしっかりと持つ必要があります。たとえば、人事管掌役員であれば、「この方はどんな仕事をしているのか」「どんな問題を抱えているのか」「それはなぜ起きるのか」を考える必要があるわけですね。
そのうちの一つが労務業務における非効率なオペレーションだったり、退職が続く不満の原因だったりするかもしれませんが、役員の視点からすれば、それは数多くある課題の一部でしかありません。
買う人が人事管掌役員だと定めたなら、その方の問題は何か、その原因は何か、課題は何かというように、お客さまの業務上の問題から掘り下げていくストーリーを作る。これが「コミュニケーションのベクトルを変える」ということなのです。
医者の診察に学ぶ営業思考。「問題解決」と「課題解決」は異なる
神前:とてもわかりやすいです。では、もう一つの観点は何でしょうか。
向井:2点目は<yellow-highlight-half-bold>「問題解決」と「課題解決」の違いを理解する<yellow-highlight-half-bold>こと。この論点の整理はとても重要です。
問題解決とは、人間の体で例えると、「お腹が痛い」という状態を解消したいということです。つまりは自覚症状があり、かつ解決に対する必要性を感じているものを指します。人は「何に困っていますか?」と聞かれれば、自覚症状しか答えられません。多くの場合、その症状が生じている原因は特定できていないことが多いでしょう。
だから私たちは病院に行くわけです。医者は問診、触診、検査などを行いますが、これらは何をしているかと言うと、原因を特定しているんです。原因がわかれば対処法が見えてきます。手術が必要なのか、薬で対応できるのか、経過観察で良いのか……この「問題解決の構造」はビジネスでも同じです。
神前:症状と原因は違う、そして対処法は原因によって変わる、と。
向井:そうです。営業で言えば「受注率が上がらない」という症状がある場合、多くの経営者は「営業担当者のプレゼンスキルを高めよう」「クロージングスキルを改善しよう」と考えます。私にもそういったトレーニング依頼が来ることがあります。
しかし実際に調査してみると、フィールドセールスに問題があるのではなく、その前段階のリードに対するコミュニケーションに課題があるケースが多いのです。たとえば、名刺交換した顧客に対して強引にアポイントを取ろうとする冷たいアプローチ。アポイント率は3パーセントなので別の方法に変えて5%を目指す!といったことをやっているマネジメントの人は多くいますが、現時点で97%の人に断らせている、つまりネガティブな感情にさせている、ということに目を向けていない。
そしてこのわずか3%の歩留まりで獲得したアポも、情報交換やディスカッションという口実でアポを取っていたりする。そこに営業担当がやってきて、情報交換そっちのけで売り物の話をしはじめ、頼んでもないのにデモをはじめる。よくある風景です。こんなことをして受注率云々の議論ができるわけないでしょう、ということです。
このように、原因を特定せずに解決策を提示することは、お客さまが判断できないコミュニケーションをしていることになります。お客さまの表面的な症状と、その奥にある本当の課題を区別し、自社製品が解決できる課題なら提案し、そうでなければ別の解決方法を提案するといった姿勢が大切です。
変化を恐れず、フェーズにあわせた営業手法の進化を
神前:確かに、多くの営業現場では症状に対してすぐに自社のソリューションを提案してしまいがちですね。それでは本質的な解決につながらず、顧客からの信頼も得られない。
向井:多くのスタートアップに共通しますが、最初に決めた方針で走ることは大切であっても、ある程度の成果が出てくると、それを捨てきれなくなる傾向があります。
お客さまの層が変わり、イノベーターやアーリーアダプターへの商売が一巡して、次は潜在層を取りに行かなければならない段階になっても、同じコミュニケーション、同じ管理方法、同じKPIを追い続ける組織が多いのです。
これを変えられない理由は「変化への恐怖」だと思っています。現状維持バイアスですね。これまで成果を出してきた方法を変えることで、短期的に足元の数字が下がるリスクを恐れるのです。しかし、環境に適応しない組織は生き残れません。外部環境やターゲット層の変化にあわせて、自分たちもアダプトしていく必要があります。
神前:「これまでうまくいっていたのに、なぜ変える必要があるのか」という抵抗感は理解できます。特に収益に直結する営業領域は変更を避けがちですね。
向井:営業は収益を担うからこそ、変化に対するバイアスも強く働きます。でも、変化できない理由をよく考えると、多くの場合は「顧客が不明確」だからです。
機能を訴求する企業は、往々にして「現場思考」です。創業者自身がその業務に携わってつらい思いをしたり、周囲の人が苦労している姿を見たりして、「同じような人を増やしたくない」という思いでスタートしたビジネスかもしれません。
それは素晴らしいことですが、<yellow-highlight-half-bold>いつまでも目線が現場レベルに留まっている<yellow-highlight-half-bold>のです。経営者であるにもかかわらず、営業活動のストーリーが現場向けになっていて、「業務が効率化します」「生産性が上がります」といったメッセージを発信しています。
これは経営者から見れば、すべて「手段」にすぎません。自分が経営者であるならば、お客さまの経営者がプロダクトを見たときに、どのようにビジネスの成長や利益に貢献するのかというストーリーを作る必要があります。その解像度が最も高いのは営業ではなく経営者のはずです。そこから逃げてはいけません。
お客さまへの理解を深める、4つの具体的ステップ
神前:経営者レベルの視点で訴求していくことの必要性を踏まえたうえで、具体的なプロセスとしてお客さまを理解していくには、どのようなステップが必要でしょうか。
向井:まず何よりも大切なのは、「何をどう売るか」から離れることです。一旦、売り物のことを忘れてください。売り物のことが頭にあると、無意識のうちに「どう売れるか」「どう興味を持ってもらえるか」という下心が生まれてしまうんです。
その後で「お客さまは誰ですか」という質問に答えられる状態にしてください。特に日本企業では、「使う人」と「買う人」に分けることができます。この両者は同じくらい重要であり、かつ別物なのです。
使う人に対して「買いませんか」というコミュニケーションをしたり、買う人に対して「こう使うと便利です」と説明しても刺さりません。SaaSは基本的に効率化を提供するツールが多いですが、効率化は「使う人」へのメッセージで「買う人」に発しても響きません。
次のステップは、「使う人」と「買う人」それぞれに対して「どんな仕事をしている人か」を言語化すること。具体的には、使う人はなぜサービスを使いたいのか、買う人はなぜ買いたいのかを言語化します。
そして、お相手がどんな仕事をしているのかという業務内容を知り、そしてどのような評価のなかで仕事をしているのかを知ることです。特に評価制度の部分を知らない営業は多いものです。お客さまは会社員であり、会社の評価制度に沿って仕事をしています。その評価基準とコミュニケーションがあわないと、相手にとっては時間の無駄になってしまいます。
神前:どんな評価体制なんですかとか、何をしたら評価されますかとかは、聞きづらい部分あると思うのですが……上手く聞き出すポイントはありますか?
向井:私がよく使うのは自己開示からのアプローチです。「私は営業なので加点評価なんです。売らないとクビを切られる一方で、数字を上げれば上げるほど評価される立場です。あなたはどうやって評価されるんですか?何がどうなったらボーナスが増えるのか想像して準備してきましたが、もし違っていると今日の準備がまったく役に立たなくなってしまうので、教えてもらえますか?」みたいに聞きます。
すると「そんなすぐにボーナスが増えるわけないよ」と笑いながら教えてくれたり、「面白いこと聞くね」という反応が返ってきます。これがわかるとお相手のミッションが見えてきて、限られた時間のなかでより価値のある会話ができるようになります。
最後に、相手が何に困っていそうなのかを調べる、考える、想像することです。問題の推察、原因の推察、解決方法の推察を順番に行い、ようやく最後に自社製品がその解決方法にどう貢献できるかを紐付けて整理します。
これらの順番で考えていくことで、お客さまを理解するプロセスが自然に身につきます。
神前:営業活動でよくある、「自社の効能だけをとにかく伝える」というアプローチから離れることが大切ですね。
向井:特に問題を課題だと勘違いしている人が多いですが、それは「お腹が痛い」と言っている人に「うちは外科が得意なので手術します」と言っているようなものです。よく考えれば恐ろしいコミュニケーションですよね。
医者であれば、原因をきちんと調べた結果、手術が必要だと判断し、ほかの患者の事例や成功率も説明したうえで同意を得ます。同様に、顧客の問題の原因は何か、その原因にどう対処すべきか、どんなリスクがあるのかを説明することで、顧客は社内での説明もできるようになります。
そういった「ヤブ医者」的なコミュニケーションから脱却し、経営者の皆さんには営業活動に積極的に関わって、お客さまの問題解決にどう貢献するかという観点で見つめ直していただくことで、成長鈍化はきっと改善するでしょう。
生成AIによって変わる営業の可能性と限界
神前:成長鈍化を超えるための手立てとして、生成AIを営業に掛け合わせることについても、向井さんの見解をぜひ聞かせてください。生成AIの技術革新は、営業という職種においても重要性を増していますか?
向井:一言で言うと「不可逆」ですね。私はAIの専門家ではありませんが、さまざまな情報を見ながら、実際にツールを触り、自分の仕事に取り入れてみて、何とかついていっている状況です。
そのなかで言えるのは、特に2025年の前半において、仮説作りの領域で生成AIは非常に強力な武器になっていると感じています。今まで人間が行なってきた仕事がAIにリプレースされたり、強力に補完されていく流れがすさまじい勢いで進んでいますが、少なくとも現時点では仮説作りの活用用途はとてもパワフルです。ただ、オペレーションやプロセスを自動的に進めるところまではいっていないでしょう。
神前:生成AIと営業を考えるうえで、2つの側面があると思っています。一つは営業がより効率的に、生産性高く動けるようになるという点。もう一つは、生成AIの登場によって「人間対人間のコミュニケーションにしかできない価値」が高まっていくという点です。
この2点について、まず営業活動をより加速できる観点で、仮説作りにどう活用できるのか具体的に教えていただけますか?
向井:シンプルにDeep Researchを使うことです。「調べる」という行為において、現時点ですでに生成AIは人間よりも優秀です。ある程度のプロンプトでも、AIの側から「こういう領域で、こういう深さで、こういう目的で調べるということで良いですか?」と確認してくるほどです。
たとえば「このバックオフィス全体においてどのような課題があるのか」「この業界や規模感の企業で共通する課題は何か」という情報を生成AIを使って調査し、その結果をもとに会話を組み立てていくことが有効です。
神前:なるほど。顧客の事業全体を理解するための情報収集にAIを活用するということですね。
向井:ChatGPT o3やo4などの推論能力の高いモデルを使うと、調べたファクトや情報をもとに、顧客との会話設計までサポートしてくれます。「この業界の、この役職の方と、初回ミーティングがあります。この方と継続的にコミュニケーションを取るために、どういう話の構成をすれば良いでしょうか」といった形で活用できるのです。
多くの営業が陥りがちな失敗は、初回ミーティングでいきなり自社サービスの説明をして、相手の話を聞かずに一方的にアピールしてしまうこと。その結果、お客さまの情報が手に入らず、フォローアップの材料もなく、関係が途絶えてしまうのです。
会話そのものを目的の一つと捉え、「この人とどうすれば良い会話ができるか」というアジェンダセッティングの観点でも、生成AIを活用する価値は大きいと思います。
「エモーショナルなコミュニケーション」は人間に残された領域
神前:逆に、生成AIを使う際の注意点は何でしょうか?
向井:最も重要なのは、AIから出てきた情報を、自分の言葉で感情を込めて話せるように練習することです。自分が納得していないと、相手に伝わるように語れませんからね。
生成AI時代に、人間に残された最後の領域は、現時点では「エモーショナルなコミュニケーション」だと思っています。そのためには、AIの出力を上から順に読み上げるだけでは意味がありません。読み込み、違和感があれば調べ直したり、論理的におかしい部分は修正したり、自分が苦手な部分は削ったりする必要があります。
大事なのは「伝えること」ではなく「お客さまと会話をすること」。そのためには一方的に話すのではなく、言葉を投げかけ、相手の意見を引き出す双方向のコミュニケーションが重要です。AIからのアウトプットがしっくりこなければ、使わないほうが良いでしょう。
神前:確かに、受注を取るための手段ではなく、コミュニケーションを商談の起点としてどう使うかという観点が大切ですね。
向井:営業担当者や経営者からすれば「いかに受注するか」「いかにMRRやARRを拡大させるか」は重要な目的ですが、それは標高3,000メートルの山頂にピンを立てて、そこだけを見ているようなものです。
実際には、商談に至るまでには、お客さまがプロダクトを購入する目的を認識し、その目的達成のために商品が適切なソリューションであることを合意し、社内のステークホルダーとも合意形成ができており、お客さまの解決すべき問題を自覚し、その原因を整理できていて、どう解決していくかまで理解している必要があります。
しかし、お客さまは必ずしも問題の原因を明確に把握しているわけではありません。だからこそ、信頼関係を築いて「あなたの言っていることはセールストークではない」と思ってもらえるコミュニケーションが大切なのです。そのための会話を円滑に進め、<yellow-highlight-half-bold>「この人と話を続けたい」と思ってもらうための強力なツールとして、生成AIが活用<yellow-highlight-half-bold>できるのです。
営業成果が出ない会社は「課題」の解釈が統一されていない
神前:少し脱線するかもしれませんが、私が考えているのは、お客さまにとって生成AIは個人のジョブは解決できても、組織全体のジョブを解決するには至っていないという点です。組織としてのジョブはコスト削減や売上拡大ですが、そこに生成AIが直接寄与するというイメージはお客さま側にもまだあまりないように感じます。
つまり、お客さまは「生成AIが欲しい」というよりも「この具体的な業務課題を解決してくれるプロダクトやサービス」を求めているのであって、それが生成AIであるかどうかは必ずしも重要ではない。
サービス提供側としては、生成AIの機能やロードマップをしっかり設計することは大切ですが、それが「生成AIだから」という理由だけで導入されるわけではありません。より根本的にお客さまの組織的課題を解決するサービスとは何かを考え、企画開発していくことが普遍的だろうと思います。
向井:いま話してくれたことで、私も組織的課題はキーワードだと考えています。
実は興味深いデータがあるんですよ。これまで350社ほどに無料で「旬トレ」という営業トレーニングを提供してきたのですが、必ず聞く質問があります。「あなたたちの会社のなかで『課題』という概念や言葉はどのように解釈されていますか?」というものです。
驚くべきことに、これまで一社も「課題」という言葉の解釈が組織内で統一されている会社に出会ったことがありません。言葉の標準化ができていない会社が営業に苦戦しているという因果関係を断言するつもりはありませんが、少なくとも営業成果が出ていない会社では、「課題」と「問題」という言葉の解釈が統一されていないことが明らかになっています。
神前:それは興味深いですね。言葉の定義が組織内で共有されていないと、コミュニケーションコストも高くなりますよね。
向井:私たちは言葉によってコミュニケーションし、意識をあわせ、認識を統一して、同じ方向へ進んでいこうとしている。それにもかかわらず、基本的な言葉の解釈がバラバラな状態で組織活動をしているわけです。本当に組織としてのパフォーマンスが出るのか、と疑問に思います。
単純に言えば、コミュニケーションコストが無駄に膨れ上がるんです。<yellow-highlight-half-bold>マネージャーが「このお客さまの課題は何か」と聞いたときに、マネージャーの考える「課題」とメンバーの考える「課題」の解釈が違えば、コミュニケーションが成り立ちません<yellow-highlight-half-bold>。その結果、課題について説明し直す無駄な時間も発生します。
「1+1=2」や「1+1+1=3」になっている時点で、組織が機能しているとは言えません。マネジメント層は、プレイングマネージャーでない限りは、ある意味でコストです。そう考えると、「1+1=2」だけでなく、より大きく「4」や「5」といった成果にしないと、組織として正社員を雇う意味がありません。全員を個人事業主でチーミングするのであれば理解できますが、固定費をかけて採用や育成に苦労しているのに、「1+1+1=3」の組織しか作れていないというのはもったいないことです。
そのような状態になってしまう一因として、言葉やコミュニケーションの意思疎通が不十分であることが挙げられます。そんな状態で生成AIのような新しいツールの話をされても機能しないでしょう。まずは土台の部分を整えることが、生成AIを導入する企業として重要だと思います。
人間は非合理的に判断するから、営業の仕事は消えない
神前:そのなかでも組織の課題を整理し、それにあわせて提案をしていくうえで、生成AIがどれだけ発展したとしても「人間の営業にしかできない余地」があると思っています。このあたり、向井さんもnoteで書かれていた非合理的なコミュニケーションを、どのように「体質」にしていくのかという観点について、もう少し深掘りさせてください。
生成AIの発展トレンドを見ると、AIは合理性の塊として進化していきます。論理的なコミュニケーションでは人間はもう勝てないでしょう。そのなかで人間の営業担当ができることは何だと思いますか?
向井:生成AIを使うと「正解」にはすぐたどり着くので、どんどんコモディティ化していきます。確かな情報を得るコストは安くなり、論理的な情報を整理して理解するコストもどんどん下がっています。
これは営業側だけでなく、お客さま側も同じ状況です。お客さまも合理的に正しそうな情報を同じレベルで持てるようになっていますよね。そんななかでROIや生産性向上の数値を示されても、生成AIでファクトを読ませて調べれば、誰でも出てくる情報でしかありません。
重要なのは、人間は合理的な情報だけでは判断しないという事実です。行動経済学が発展しているのはそのためで、もし人間が合理的に正しい活動をしていれば、タバコはとっくに世の中から消えているはずですし、環境負荷の高いガソリン車もなくなっているはずです。でも、「好きだから」「安心するから」「思い入れがあるから」といったエモーショナルな領域で私たちは意思決定をしている。
自分の生活を振り返ってみると、いかに非合理な判断を日常的にしているかがわかるはずです。<yellow-highlight-half-bold>それなのに、商売や営業の場面になると急に合理的なコミュニケーションばかりするのは、おかしいと思いませんか?<yellow-highlight-half-bold>生成AIの登場によって、合理的な情報はお客さまが営業と会わなくても手に入る時代になってるわけですから。
もし、人間が完全に合理的な判断をする生き物だったら、営業はもう不要になっているはずです。しかし幸いなことに、人間は合理的な判断をする生き物ではない。そこで、非合理な、特に感情の領域をコミュニケーションによって刺激し、お客さまの背中を押したり判断を促したりすることが、私たち人間にしかできない営業活動なのではないでしょうか。