SaaSスタートアップが成長フェーズに突入する際、「エンタープライズ市場の攻略」が成長スピードを左右する重要な課題となります。しかし、エンタープライズ市場はSMB市場とはまた異なる高いハードルが待ち受けています。プロダクトへの厳しい要求、多数のステークホルダー、長期にわたるセールスサイクルなど、克服すべき課題は山積みです。
本記事では、エンタープライズ市場の開拓に深い造詣を持ち、豊富な実績を誇るRightTouch代表取締役の野村修平さんに、エンタープライズ攻略のポイントを解説していただきます。RightTouchは2021年12月創業、従業員は30名を超えた規模ですが、「最初からエンタープライズをターゲットに事業を進めている」という特徴を持っています。
野村さんはワークスアプリケーションズでのキャリアを経て、「KARTE」で知られるプレイドでのエンタープライズセールスチームの立ち上げやリーダーとして活躍し、その後、RightTouchを創業。「RightSupport by KARTE(以後、RightSupport)」やWebと電話の分断を解消するプロダクト「RightConnect by KARTE(以後、RightConnect)」など複数プロダクトを展開するRightTouchで、現在はビジネスサイド全体と採用をリードしています。
エンタープライズ向けリード獲得の秘訣や商談の進め方など、エンタープライズビジネスの要諦を深掘りするのは、ALL STAR SAAS FUNDのSenior Partner 湊雅之です。話題は適切な人材の採用や育成、組織内でのナレッジ共有方法といった組織開発にも及びました。エンタープライズ市場で成功するための組織作りのポイントにも迫ります!
大手企業3社で契約。そこで感じた「異変」をきっかけに
湊:まずは、RightTouchさんの設立経緯や事業概要について教えていただけますか?
野村:RightTouchは「あらゆる人を負の体験から解放し、可能性を引き出す」をミッションに、カスタマーサポート領域に特化したSaaSプロダクトを提供している会社です。
私たちはCX向上支援プラットフォーム「KARTE」を提供するプレイドのグループ会社なのですが、プレイドでも初の取り組みとして、社内新規事業からスピンオフして新たに創業した経緯があります。
もともとは、マーケティング用途で利用されることの多かった「KARTE」を、ソニーグループへ営業したところ、3社続けてカスタマーサポートを目的とした利用契約が取れまして、それにある種の違和感というか、「異変」を感じたのがはじまりですね。
実際に3社と共同プロジェクトを進め、順調にサクセスを達成するなかで、他のお客さまへも展開することを考えました。ただ、個社ごとの深いカスタマイズなどを施したうえでのサクセスだったこともあり、よりカスタマーサポートに特化した汎用プロダクト開発の必要性を強く感じました。
そこで、さらに深い取り組みを行なうため、クライアント企業のカスタマーサポート部門が抱える課題を広く調査し、ソリューションの提案を行ないました。いわゆる「チャンピオン」と呼ばれるような人にお願いして、1.5時間ずつ2回ほどお時間をいただいて、あらゆる課題感をお聞きし、ディスカッションする時間を持つようになりました。
この過程で、カスタマーサポート市場の大きさと重要性を再認識したんです。カスタマーサポートは顧客との唯一の接点であり、大切なデータを取り扱っています。そのデータを事業や経営に還元できれば重要性がより発見され、効果が高まるようなSaaSプロダクトを展開できるのではないか、と考えたところが創業のきっかけでもありますね。
そこでプレイド内で設立準備室を設けた後に、2021年12月にRightTouchを設立しました。順調にエンタープライズ企業への開拓が進んでおり、現在は3つのプロダクトを提供しています。さらに4つ目、5つ目のプロダクト開発も進行中です。いわゆる「コンパウンドスタートアップ」を志向するようなフェーズになってきています。
湊:ありがとうございます。事業戦略の全体像としては、どういったステップを踏んでいく想定ですか。
野村:私たちとしては、問い合わせ前の自己解決を促進するWebサポートプラットフォーム「RightSupport」が成長したものの、まだステップ1に立ったばかりだと感じています。次のステップ2は、顧客が問い合わせ電話をしてきたタイミングでのサポートを変革していくオペレーション領域のプロダクト「RightConnect」で、コールセンター側の本丸の事業にも進出していくこと。ここに今、まさに入りはじめているタイミングです。
その後、ステップ3では、エンタープライズだけではなく、SMBや官公庁、それから個人でも使ってもらえるカスタマーサポートのプロダクトにも展開していく可能性を見ています。これらをコンパウンドで展開していくのが、現状の戦略だといえます。
「エンタープライズ」を定義づける2つの要素
湊:ありがとうございます。早速、今日の本題に入っていければと思いますが、まずはシンプルな問いから。野村さんにとって「エンタープライズ」の定義とは何でしょうか?
野村:私が考えるエンタープライズの定義は、主に2つの要素があります。一つは高い契約単価、もう一つは意思決定プロセスに関わる人数の多さです。
具体的には、ステークホルダーが10人以上、多い場合は50人から100人単位で関わってくるような案件をエンタープライズと捉えています。そのため、組織全体を攻略していくアプローチが必要になります。
湊:なるほど。契約金額の目安としては、どのくらいを想定されていますか?
野村:大手企業の場合、部長クラスの決裁権限が概ね1,000万円未満であることが多いです。1,000万円を超える案件になると、役員クラスの承認が必要になってきます。つまり、年間契約金額では、数百万円後半から1,000万円を超えるレンジがエンタープライズ案件の目安と言えるでしょう。
セグメンテーションマップを作り、ターゲットを見定める
湊:エンタープライズ向けのGo To Market戦略について、詳しく教えていただけますか?特に、意思決定プロセスが複雑な組織に対して、高単価商談をどのように進めていくのかという点に興味があります。
野村:RightTouchの事例では、まずはエンタープライズ向けのターゲティングについては、初期の立ち上げフェーズから模索をしてきました。まずは、日本の上場企業2,000〜3,000社のなかで、自社のソリューションが最もフィットする顧客層を見極めることが重要です。
我々の場合、カスタマーサポート領域で顧客を2つの軸で分類しました。縦軸に「CSの捉え方」、横軸に「Web上での自己解決取り組み度合い」を置きます。
縦軸の「CSの捉え方」としては、「コンタクトセンターでコール数削減に注力している」といったコストへの効果に価値を置くか、「顧客体験(CX)とコスト削減を目指している」という両立型に分けられます。横軸の「Web上での自己解決の取り組み度合い」は、度合いの高低で二分できます。このマッピングで顧客特性が変わることが見えてきたのです。
その結果、RightTouchの初期ターゲットは「自己解決取り組み度合いが高く、CXとコスト削減の両立を目指す企業」に据え、彼らを「次世代CS型」と呼ぶことにしました。具体的には、金融業界が特に該当します。そして、PMF後の拡販では、「自己解決度合いが高く、コスト効果に価値を置く」ような「王道CS型」の企業群へターゲットを広げます。この型には、電気やガス、通信といったインフラ系企業が当てはまります。
湊:セグメンテーションマップを作るのに、どのくらいの期間と企業数のインタビューが必要だったのでしょうか?
野村:およそ半年ほどかかりました。インタビューした企業数は50社以上になります。これには、実際の商談に至らなかった企業や、浅いコンタクトも含まれています。SMBも含めて、幅広く話を聞きました。
湊:このマップの秀逸なところは、顧客のマインドと行動特性に基づいてセグメント分けされていることですね。実際のABM(アカウントベースドマーケティング)に活用する際、具体的な企業のターゲットリストも作成されたのでしょうか?
野村:確かに「次世代CS型」という抽象的な分類だけでは具体的なリストは作れません。実際には、ターゲットになりそうな企業のリストを作成し、それを元に商談の反応や即時の失注理由などを分析しました。そこから、どの企業が「次世代CS型」や「王道CS型」に該当するかを抽象化していきました。失注分析や振り返りは大切で、単に「良かった」「悪かった」という結果だけでなく、理由を深掘りし、セグメンテーションに反映させました。
湊:ターゲットリストの作成方法について、「○○会社の○○部長」というように具体的に作成していますか?
野村:いいえ。基本的には会社単位のリストです。エンタープライズ企業では関係するステークホルダーが多いため、個人レベルでリスト化すると膨大になってしまいます。むしろ、CRM上で管理するほうが適切だと考えています。
まずは顧客の「情報収集先を知る」ことが重要
湊:ターゲットを絞り込んだ後、どのようにリード獲得を行なったのでしょうか?
野村:エンタープライズ向けのリード獲得では、まず顧客の「情報収集先を知る」ことが重要です。
大企業の方々は、我々スタートアップ従事者と異なり、(部門特性で差異は出ますが)WebサイトやSNSからの情報収集が少ないケースが多いんです。
我々の業界では、約8〜9割のお客さまが業界誌から情報を得ていることがわかりました。たとえば、『月刊コールセンタージャパン』という業界専門の月刊誌から情報を得ているケースが多かったのです。たとえば、そういった業界誌の出版社がウェビナーを開催し、そこで最新情報を収集しているパターンもある。同様の事例は事業ドメインごとにあり得ますね。
実際のリード獲得でも、業界誌や資格機関が開催するウェビナーやイベントは非常に効果的でした。アーリーステージのスタートアップには自社のハウスリードがないので、他社のブランドを活用することが欠かせなくなってきます。
業界誌や資格機関、イベントの統括企業とのつながりを深めるために、最初はイベントのスポンサーになるところからはじめるなど、徐々に関係を築いていきます。業界誌に掲載してもらえるような興味深い事例を提供したり、資格機関の目指すところを理解して貢献できる方法を探ったり。いかにWin-Winになれるのかを考えながら、お付き合いをしていきました。
また、展示会への参加や、業界の国際資格に関する勉強会なども貴重な情報源です。特に、金融商品のようにコモディティ化が進んでいる分野では、カスタマーサポートの質が差別化要因になるため、こういった資格の取得に熱心な企業も多いんです。
実際に自分たちで足を運び、どういったお客さまが来ていて、そのなかでどういう話がなされていて、自分たちのプロダクトは適合し得るのか。初期には無駄足になることもあるかもしれませんが、実際にやってみて顧客の解像度が上がりましたね。
どの部門の予算から、自社のプロダクトが採用されるのかを考える
湊:情報収集先を知った後は、どのように進めていくのでしょうか?
野村:重要なのは「どの部署にアプローチするか」を見極めることです。言い換えると、どの部門の予算から自分たちのプロダクトが採用されるのかを考える、ということです。
情報収集先がわかれば、いろんなお客さまに会える。特に展示会は、自分たちの商材に興味を持ったお客さまにヒアリングをさせてもらえば、会社や部署内でどういった役割を担われているのかがわかりやすいですよね。
我々の場合、カスタマーサポートの「企画」部門が、ツール選定に関わっていることがわかりました。コールセンターを運営している部門でもなく、ITやDX部門でもないんです。
さらに、「どの役職の人に会うべきか」も肝心です。カスタマーサポート部門はマーケティングや人事といった他部門と比べて社内での立場が弱い傾向にあり、ツールの導入提案に慣れていないケースも多いようです。そのため、課長クラスでは最終的な意思決定が難しく、最低でも部長クラスに会わないとディールが決まらないケースが多いことがわかりました。
このあたりが定まってくると、インサイドセールスやマーケティングの役割として、出るべきイベントや実施すべきウェビナーの選定、集客すべきターゲットといった打ち手が変わってきます。特にエンタープライズに関しては、ターゲット社数が非常に少ないですから、営業戦略では「自分たちのマーケティングや営業リソースをどこに張れば理想のリードを取れるのか」が大きな意味を持ちます。この解像度をどれだけ高められるかによって、リード獲得自体も変わってくるのです。
湊:初期により効果的だったアプローチがあれば教えてください。
野村:我々の場合、業界誌や資格機関との関係から得られた紹介が効果的でした。また、ウェビナーからのリードも相性が良かったです。さらに、スピンオフ元の会社であるプレイドの既存顧客との相性も良好でした。
重要なのは、顧客がどこに集まるのかを高い解像度で把握することです。それさえわかれば、最適なアプローチ方法を選択でき、効率的にリードを獲得できます。この点に力を入れてリサーチすることをお勧めします。
展示会は積極利用。金額に見合うリターンはすぐにペイできる
湊:展示会については、どのような点に注目されていましたか?
野村:展示会は貴重な情報源です。我々は創業準備段階で、ほぼ目的はマーケット調査のために小規模なブースを出展していました。装飾も全く費用をかけず、PCと簡易的なパンフレットだけでセールスが応対するようなものです。展示会の最小ブースは、約50〜100万円で出展できますから、ターゲット企業や部署、役職者の調査をはじめ、ベンダー含めた「出会いの場」と捉えれば、金額に見合うリターンはすぐにペイできてしまうんですよね。
展示会では、個別の商談以外にも多くの情報が得られます。たとえば、展示会のレイアウトや各ベンダーの出展位置から業界の力関係やトレンドを読み取ることができます。我々が参加したある展示会では、2階と3階にブースが分かれていましたが、2階のほうが集客力が高く、そこにはメインのベンダーが集中していました。
2階の入り口付近には、セールスフォースのようなCRMやコールセンター関連の大手企業が陣取り、その周辺にSIerが集まっていました。一方、3階にはスタートアップ企業が多く、特にチャットボット関連の企業が目立ちました。さらにその周辺に老舗のツール群や地方都市のブースが出展していて……と、このような観察から、業界の構造や力関係を把握することができました。特に事業の初期フェーズにおいては、有用な気づきが多かったですね。
湊:プロダクトと業界の解像度を上げるために、個別の顧客へのリサーチにどれくらい時間をかけるべきでしょうか?
野村:初期段階では、徹底的にリサーチすることをお勧めします。特に最初の1〜2社についてはディープダイブすべきです。1社から学んだことが、次の顧客へのトークスクリプトや提案内容に活かせるからです。
エンタープライズ向けの商談では、予算サイクルを理解すべし
湊:エンタープライズ向けSaaSの展開方法について伺いたいのですが、全社導入を目指すべきか、それとも一部署からはじめて徐々に拡大していく「ランド・アンド・エクスパンド」方式か、どちらが効果的だと思われますか?
野村:状況によって異なりますが、基本的には前例がある状態が最も有利です。たとえば、既存のシステムをリプレイスする形で自社のソリューションを提案できる場合は、大規模な提案をしたほうが良いでしょう。
一方、前例がなく、大規模な提案を取りまとめる人材がいない場合や、経営層がその提案をどう判断すべきかわからないような状況では、意思決定が非常に難しくなります。そのような場合は、小規模な導入からはじめて徐々に拡大していく「ランド・アンド・エクスパンド」のほうが適切でしょう。
湊:エンタープライズ向けの商談プロセスについて、特に注意すべき点はありますか?
野村:エンタープライズ向けの商談では、予算サイクルの理解が重要です。いきなり期中に商談をして、3ヶ月後に契約できます、という世界観では全くないのです。「半年間セールスをやってみたけど成果が出ないので止めよう」といった時間軸ではうまくはいかないでしょう。多くの大手企業では、4月からの新年度予算を前年の秋口から検討しはじめます。そのため、9月から11月頃が次年度の予算獲得のための時期となります。
実際のセールスは、この予算取りの前からはじめる必要があります。つまり、7月や8月の段階から接点を作り、顧客の来年度の計画に自社のソリューションを組み込んでもらわなくてはならないのです。世の中で秋口に展示会が多い理由の一つでもありますね。
1月から3月の間は、会社全体の予算調整が走りますが、企業によって調整が済む時期はまちまちです。早く決まるところもあれば、ギリギリまで調整をして、ようやく3月末に決まるお客さまもいます。
ですから、特にスタートアップにおけるエンタープライズセールスは「コンペティションになった瞬間に負ける」と意識しなくてはなりません。自分たちに十分な実績がないなかであっても勝つためには、顧客への高い解像度と理解を持って、予算取りの手前で自社が前提で話が進んでいたほうが良い。
よく、セールスの方で「RFP(提案依頼書)をもらいました!」と喜ぶ方がいらっしゃるんですけど、エンタープライズのセールスとしては二流、三流と言わざるを得ません。RFPが出た段階で、すでに誰かのシナリオに沿った競争になっている可能性が高いため、ほぼ負けが確定したと捉えていいでしょう。セールスは予算取りの手前からはじまると心得て、秋口よりも前の7月や8月から顧客と接点を作り、関係を築いておくことが成功の鍵となります。
それを念頭に置くとすると、インサイドセールスやマーケティングを打つべきタイミングも見えてきます。
結果的に売上が立つのは4月から5月になりますから、自社の事業に合わせた売上が入るまでのプランニングも、エンタープライズセールスにとっては重要なファクターになると思います。
湊:ちなみに、担当者経由で商談を獲得したときに、部長クラス以上と会うためのテクニックはありますか?
野村:特に、事業立ち上げ当初の初回商談で部長クラスのリードを直接獲得することは稀です。まずは商談を継続させることがポイントですね。テクニックとしては、スタートアップでは想像しにくいことですが、大企業には「役職を合わせる」文化があることを利用できます。たとえば、「次回の商談には弊社の代表が参加しますので、御社の部長にも同席いただけないでしょうか」と提案すると、相手も役職を合わせて上位者を出席させてくれることがあります。
湊:顧客に稟議を上げてもらい、予算に組み込んでもらう際の説得方法について、アドバイスをいただけますか?
野村:顧客の重点テーマを理解することが大切です。大企業では通常、経営テーマがあり、それが部門テーマに落とし込まれ、そこから予算が決定されます。自社の提案がこの重点テーマにアラインしているかを確認し、説明できなくてはなりません。
顧客の稟議書作成を支援することも効果的です。稟議書作成のロジックや必要な資料の提供など、予算取得のプロセスに深く関与することで、顧客が直面する障害を理解し、より効果的なサポートができるようになります。お客さまの稟議作成や予算策定における「つまずき」ポイントへの解像度も上がりますしね。それを続けることで、改善点も浮き彫りになってくるかな、と思います。
値下げは不要。それよりもサクセス実績を大切に
湊:予算取りを踏まえた年間スケジュールが重要だということですが、実績作りを優先して単価を抑え、受注自体を優先する場合、どのような単価や契約期間が考えられますか?
野村:大企業では数百万単位の余剰予算がある場合もあるので、期中での契約も可能です。年間契約や、たとえば3月末までの短期契約などもあり得ます。ただし、注意すべき点として、PoCの無駄打ちになりかねないことです。短すぎる期間や安すぎる価格では、顧客側の優先順位が上がらず、結局は「3月末で解約されてしまう」というケースもあります。
そのため、たとえPoCが1年未満の契約でも、確実に成功できる期間を確保し、適切な価格設定をすることが重要です。顧客から対価をいただき、プロジェクトの成功率を高めることが、継続的な関係構築につながります。
値下げについては、私は不要ではないか、と考えています。それよりも大切なことは、しっかりとお客さまの課題に合わせてソリューションを提供し、サクセスできること。その後に、年間契約になった暁にはエクスパンションを図ると共に、ウェビナーなどにお客さまにご登壇いただいたり、ロゴを活用させてもらったりといったプラスを積み上げる。
とにかく短い期間で契約を取ることを優先順位に置くのではなくて、お客さまのサクセスを実際にできるかどうか。その上で、期中であっても「このぐらいの期間があれば、確実に成功できる」というセールスで取りに行く、という発想のほうが成功は近いはずです。
湊:エンタープライズセールスでは、トライアルプランを求められることがあると思います。どのように扱っていますか?
野村:我々は短期間でのプロジェクトを求められて、その内容を鑑みたときに成果が出せない場合は、基本的にお断りしています。ただし、単に断るのではなく、「なぜ断るのか」という理由を丁寧に説明し、代替案も提示します。
たとえば、「3ヶ月では十分な成果を出すことができません。その理由は...…」と説明し、「しかし、この期間であれば確実に成果を出せるので、ご検討いただけませんか」といった提案をします。
重要なのは、お客さまに我々の考えを理解していただくことです。3ヶ月という短期間では継続的な価値を提供できないという説明を丁寧にする。合意いただけなければ、我々のお客さまとしてお迎えするのは難しいと判断することもあります。大切なのは、ちゃんと価値が出せるお客さまにフォーカスすることですね。
湊:受注までの期間が長い場合、半年から2年かかるようなケースで、エンタープライズセールスの立ち上げ時に、どのような目標設定をすべきでしょうか?
野村:立ち上げから最初の半年や1年間は、具体的な数値目標を設定するのは難しいと考えています。むしろ、良質な顧客を獲得し、確実に成功させることに集中すべきです。2年目以降であれば、ある程度のトラクションが得られているはずなので、半年やクォーター単位での目標設定が可能になるでしょう。
湊:エンタープライズセールスの場合、1人当たりの商談数や年間受注目標はどのように設定していますか?
野村:我々もさまざまな企業とお話ししたテーマでもあるのですが、商談数については、一般的に30件前後が適切だと考えています。40件に近づくと管理が難しくなり、抜け漏れが出やすくなります。
年間受注目標に関しては、セールスフォースの優秀な営業担当者で年間MRR1,200万円程度と聞いています。そのため、年間で数百万円後半のMRRを獲得できる営業担当者は、かなり優秀だと言えるでしょう。
湊:エンタープライズセールスのユニットエコノミクスについて、リードタイムが長いためCACが大きくなりがちですが、どのくらいのリードタイムとACVなら許容できると考えますか?
野村:エンタープライズビジネスでは、通常、半年から1年程度のリードタイムが平均的です。これを大幅に短縮するのは難しいでしょう。たとえば、1年かかっているものを半年に縮めるような努力は必要ですが、3ヶ月に短縮するのは提供モデルを根本的に変えない限り現実的ではありません。
したがって、6ヶ月から12ヶ月のリードタイムを前提に、そこでユニットエコノミクスが成立するようなACVを逆算して設定するのが妥当だと考えます。
湊:事例がない段階でのエンタープライズ向け営業で、工夫されたことはありますか?
野村:事例が全くない段階では、提案力で勝負するしかありません。お客さま以上に業務への理解を深め、質の高い提案をすることに注力します。
我々の経験では、プロダクトが完成する前の段階でもモックを使って営業し、コンセプトが顧客の課題に合致すれば興味を持ってもらえることがありました。最終的には、プロダクトが形になった段階で判断してもらう、という流れでした。
ただし、サクセス実績が1つか2つでもあれば、それを最大限活用します。たとえSMB向けの事例であっても、エンタープライズ企業の課題と共通点があれば、ロジカルな説明と共に効果的に使えます。事例ゼロよりはずっといいでしょう。
「最初の成功体験を確実に作ること」が顧客の信頼につながる
湊:ここからはRightTouchの事業戦略についてお聞きしたいと思います。事業戦略の特徴について教えていただけますか?
野村:我々のカスタマーサポート領域では、データの発生ポイントが3つあります。問い合わせ前、問い合わせ中、そして問い合わせ後です。我々はこのすべてのポイントをカバーするプロダクトを展開することを目指しています。
まず、問い合わせ前のデータを取得することで顧客の解像度を上げ、これが我々の競争力の源泉になると考えています。そこから問い合わせ中、問い合わせ後と順次プロダクトを拡大し、一つのアカウントで複数の製品が採用されるような戦略を立てています。特徴的なのは、既存顧客が積極的にプロダクトを拡大採用してくれること、そして実績のない新しいプロダクトでも採用を決定してくれることです。
湊:そのような顧客との良好な関係を築くために、どのような取り組みをされていますか?
野村:重要なのは「最初の成功体験を確実に作ること」です。セールスが雑に契約を獲得をすると、顧客の成功はなく、次のエクスパンションも未来の契約も難しくなります。最初の成功を作ることで自然とエクスパンションにつながり、さらに顧客満足度が高まると、今後のプロダクト開発にも協力的になってくれます。たとえば、新製品の構想段階で顧客のニーズや課題をヒアリングしたり、オペレーターが働くコールセンターの現場を見学させてもらったりもします。
こうすることで、顧客は早い段階から新プロダクトに興味を持ち、アルファ版の段階から使用をご希望いただくケースも出てきます。ベータ版で有償化し、正式版でさらにアップセルするという流れが作れていますね。
このように、既存顧客の協力を得ながら新プロダクトを開発することで、リリース時にはかなりの成功確率を持って展開できるのが我々のユニークな点だと思います。
湊:なるほど。エンタープライズSaaS、特に特化型SaaSならではの戦略ですね。数は少ないけれども財務的に余裕のある顧客に対して、最初の導入でのサクセス体験を作り、その顧客をチャンピオンやリファレンスカスタマーにしていくことが重要だということですね。ちなみに、RFPへの対応やカスタマイズについては、どのようにお考えですか?
野村:基本的には会社のスタンスによりますが、近年はカスタマイズを行なわなくても採用される可能性が高くなっています。ただし、顧客の業務に支障が出るような要件については、プロダクトのバージョンアップで対応するなどの検討が必要です。個人的には、できるだけカスタマイズは避けるべきだと考えています。
湊:エンタープライズ向けのセキュリティ基準について、どのように対応されましたか?
野村:基本的には顧客のセキュリティチェックを受けて対応していきます。まずはセキュリティチェックシートの内容を詳細に確認し、「プロダクト側で対応できる項目」と「認証取得が必要な項目」を識別します。そこからは、顧客と膝を突き合わせて議論し、必須の要件を明確化したうえで、場合によっては「ISO認証に相当する」などの代替案を提案しながら進めます。
我々の場合、事業開始から半年〜1年程度でISMSを取得しました。エンタープライズ向けSaaSでは比較的早い段階で取得する企業が多いようです。
コンパウンド型のエンタープライズ向けビジネス、という高難易度
湊:RightTouchの採用と組織作りについてお聞きしたいと思います。重視されている点は何でしょうか?
野村:我々のビジネスは、今後も新しいプロダクトやサービスを立ち上げていく予定です。そのため、新規事業の立ち上げ初速をいかに上げるか、そして既存のPMFしたプロダクトをさらに広く実績のない業界にまで展開できるかがポイントになってきます。
特に、エンタープライズ向けビジネスでは、セールス力をビジネスチームに根付かせることが事業成長の鍵。我々の場合、セールスの難易度がかなり高いことは認識していますから。
湊:その難易度の高さは、どのような要因によるものでしょうか?
野村:大きく分けて、「単品マルチ」vs「コンパウンド」、そして「SMB」vs「エンタープライズ」という2つの軸があります。我々はコンパウンド型のエンタープライズ向けビジネスを展開しているため、最も難易度が高い領域に位置しています。
コンパウンド型ビジネスでは、1社の顧客に連続的に複数のプロダクトを採用してもらう必要があります。そのため、セールスやカスタマーサクセスの担当者が幅広い製品知識と業務知識を持つことが重要です。
それと比べて「単品マルチ」は、お客さまの興味関心に合わせて、セールスやサクセスをかなり役割分担しているので、コンパウンドほど広い製品知識だったり、業務知識を持つ必要は比較的ありません。だからこそ、組織作りにも工夫が欠かせないんです。
「強いエンタープライズチーム」がより早く立ち上がる育成法
湊:高難度のセールスを行なうチームを、どのように構築されているのでしょうか?
野村:従来は、セールススキルを徹底的に高めることに注力する傾向がありましたが、我々は少し異なるアプローチを取っています。ある程度は「売れる閾値」みたいなものはチャートで示すこともできるので、セールスイネーブルメントに熱心になることだけが正道ではないのだろうと。
むしろ、セールススキルだけでなく、プロダクトや業界に対して深く理解することが、実は売上につながりやすいことに気づきました。そのため、まずはプロダクトと業界の解像度を高め、その上でセールススキルを徐々に向上させていく方法を採用しています。そのほうが「強いエンタープライズチーム」がより早く立ち上がるのではないかと思います。
実際にRightTouchでは、セールス経験がないメンバーでも、カスタマーサクセスがセールス要素を持って売りを行なったときに、セールスだけに強みを持つメンバーよりも早く契約できたことがあったんです。そういった経験から至った考えでもありますね。
私の経験上でも、営業スキルを高めて「一人前」になるには、新卒から数えると3年くらいかかるのもザラですよね。経験がものを言うところで、スピード感はあまりない。ただ、それに比べてプロダクトや業界への解像度は、学ぶことでお客さまに対しても使える知識になりますし、関連するラーニングのスピードも明らかに速いものです。
そこで具体的には、セールスとカスタマーサクセスの役割を明確に分けず、オンボーディングの期間に両方の業務を経験させています。最初はカスタマーサクセスからスタートし、プロダクトと顧客への理解を深めた上で、セールスに移行するというキャリアパスを設けています。
この方法により、若手でもエンタープライズ向けセールスを早期に習得できる可能性が高まるのではないか、という実験中ですね。若手であったとしても、かなり早いタイミングでエンタープライズセールスになれると、半年くらいのトライでわかってきたところです。従来の方法よりも立ち上がりに時間がかかる面もありますが、長期的には強力なエンタープライズチームの構築につながると考えています。
エンタープライズセールスとして成果が出せるようになった後のキャリアは、当人の意志に合わせて、さらなるエンタープライズセールスのプロになっても良いですし、BizDevやPdMといった広げ方をしても良い、とキャリアの階段を幅広く設けるように取り組んでいます。
経験者だけでなく「構造理解者」がワークする
湊:エンタープライズセールスの人材採用について、経験者を採用するか、SMBから育成するか、また社内にエンタープライズセールスの経験者がいる場合といない場合で、どのようなアプローチが良いでしょうか?
野村:社内に経験者がいる場合は、SMBの営業をエンタープライズに育成することも可能です。ただし、個人の特性を見極めることが重要です。SMBとエンタープライズでは求められる素質が異なるので、単純にSMBで実績があるからといってエンタープライズで成功するとは限りません。
経験者がいない場合は、エンタープライズの組織構造を理解している人材を採用することをお勧めします。たとえば、コンサルタントやエンタープライズ企業で事業企画をしていた人材などです。
また、経験者の採用を急ぐよりも、エンタープライズビジネスの経験がある外部アドバイザーや顧問を活用しながら、慎重に採用を進めることも一案です。
湊:コミッションについてはどのようにお考えですか?
野村:我々はコミッションを設けていません。理由は主に2つあります。
最近読んだ本に書かれていたことで納得したのですが、予想される報酬が明確になると人間の創造性が失われるという認知科学の調査結果があるそうです。特にスタートアップの初期段階では創造性が大切なので、それを阻害するインセンティブ設計は避けています。
また、セールスだけにインセンティブをつけると、エンジニアやカスタマーサクセスなど他の部門との間にコンフリクトが生じる可能性があります。そのため、特定の部門だけにインセンティブをつけることは避けるべきだと考えています。
湊:RightTouchの場合は、社内育成が大前提にあるという背景もありそうですね。その点では、エンタープライズセールスの経験者採用については、どのようにお考えですか。
野村:経験豊富な人材の採用は難しいので、1〜3年ほどの長期的な視点で粘り強くアプローチすることが必要です。一方で、自社でエンタープライズセールス人材を育成することも重要でしょう。我々の場合、エンタープライズセールスの経験はなくても素養のある若手人材を採用し、育成しています。外部のアドバイザーも活用しながら、自社に合った人材育成の仕組みを作ることが肝心だと考えています。