現代のSaaSの世界において、成長の効率性は、最も重要な経営アジェンダです。ここ数年、日本でも上場・未上場問わず、この重要度が増してきています。なぜなら、成長の効率性は、持続的な成長と利益創出のカギだからです。
メトリックスが大好きなSaaSでは、さまざまな成長効率性の指標があります。LTV/CAC、CAC Payback、Magic Number、バーンマルチプルなどがよく知られていますが、今回紹介するのは「従業員1人あたりARR(通称APE、ARR per Employee)」です。
以前のALL STAR SAAS BLOGでも、日米SaaS企業のデータから「人員投資の基準」を考えるためにAPEを取り上げているので、併せてこちらもご参照ください。
APEは、その名の通り、従業員が平均でどのくらいのARRを創出しているのか、を測る指標です。SaaS企業の総合的な効率性や生産性を評価することができます。
SaaS先進国のアメリカでは、APEはよく見られる指標です。アメリカのトップVCの一角であるBattery Venturesでは、ARR規模別で以下のようなベンチマークを公表しています。
このデータからは、ARR規模が大きくなるにしたがってプロダクトが複層化し、オペレーションも磨かれていくために、APEが増加していく傾向が見て取れます。これはAPEの大きな特長の一つといえるでしょう。
日本のマネーフォワードもAPEを公開しており、日本のSaaS企業でもみられる指標であることもわかります。
そこでこの記事では、国内の上場SaaS企業の過去3年のデータから、日本におけるAPEのトレンドと、ARR規模別で目安にすべきAPEについて解説します。
なぜ、成長効率性の指標に「従業員1人あたりARR」が優れているのか?
本題へ入る前に、まずAPEが、成長効率性の指標として優れている3つの理由を解説したいと思います。
1.シンプルで日々の経営判断に使いやすい
APEの魅力は、何といっても、全体感をつかみつつ、シンプルで使いやすい点です。難しい計算もいらず、「どれくらいの人数を採用すべきか?」といった日々の経営判断にも応用しやすいのです。
LTV/CAC、CAC Payback、Magic Numberは、営業・マーケティングコストの最適化や事業のユニットエコノミクスを確認する上では、優れた成長効率性の指標といえます。しかし、計算する要素同士がトレードオフにあるところが難しい。例えば、「マーケティングコストを削れば、New ARRが下がる」といった関係です。
加えて、LTV/CACの場合は、チャーンレート(解約率)を長期的に一定の前提で計算するため、チャーンの再現性が取れていないアーリーフェーズでは扱いにくい。また、競合環境が変わるリスクを無視するため、過剰投資のリスクがあります。
バーンマルチプルはAPEと近く、ダイレクトにARR増分とキャッシュバーンを比較するので、全体の成長効率を把握・比較する上では優れています。ただ、指標としては俯瞰的すぎるため、アクショナブルとは言い難いのです。
これらの指標として比べても、APEは、日々のオペレーション上でのアクションを判断するには使いやすい。それが最大の魅力と言えるでしょう。
2.組織全体のコスト最適化がしやすい
SaaSのようなソフトウェアビジネスでは、人件費はコスト全体の70%程度を占める最大の支出です。特に日本は労働基準法により、アメリカと比べてレイオフや解雇が難しいため、人材投資の判断はよりセンシティブにならざるを得ません。APEは、SaaSの最大の投資コストにおける効率性を測り、経営判断を行なう上でも有効に働きます。
他方で、LTV/CAC、CAC Payback、Magic Numberを用いる場合、営業・マーケティングを中心としたビジネス組織のコスト最適化には適していますが、SaaSビジネスにおける営業・マーケティングコスト(S&M)はコスト全体の40%程度とされます。つまり、これらの指標で効率化を図っても一部のコストしか最適化されず、全体コストの最適化は放置されてしまいがちです。
3.営業・マーケティングチーム以外も含めたARR創出の総合力がわかりやすい
SaaSビジネスの成長効率性に寄与しているのは、何も営業・マーケティングチームだけではありません。日々プロダクトの改善を繰り返しているプロダクト・開発チームも多大なる貢献をしています。また、優れた人材の採用や、組織づくり、財務面での見える化、PDCAの推進などは、HRチームやコーポレートチームによる推進が欠かせません。組織全体が一体となって実践しているのです。
前述の通り、LTV/CAC、CAC Payback、Magic Numberはあくまで営業・マーケティングを中心としたビジネス組織の効率性を高めるのには向いていますが、プロダクト・開発チームなど他のチームへの投資の貢献は見えてきません。営業・マーケティングチーム以外も含めたARR創出の総合力を見るためには、APEが適しているのです
このようにAPEには指標として優れた点も多いのですが、万能な効率性指標とまではいえません。あくまで目的に応じ、複数の効率性指標を組み合わせて、SaaSの健全性測定や経営判断に使うことをお勧めします。
国内SaaS上場企業における「従業員1人あたりARR」のトレンド
それでは、本題の国内SaaSのAPEが、どのくらいの規模にあるかを見ていきましょう。下図に、国内SaaS上場企業30社のAPEが大きな順に並べてみました。2024年3月末時点では、平均2,114万円、中央値1,940万円です。
過去3年間で見てみても、APEは2,000万円前後をキープしています。ただ最大値、最小値の推移に目を向けると年々上がっており、国内SaaS上場企業も年々成長効率が高まっていることがわかると思います。
総じて言うと、現在では、国内SaaS上場企業のAPEは2,000万円を目安の一つにしていいでしょう。
次に、APEのトップ5企業を見てみます。
1位の手間いらずは5,110万円と段違いに大きく、Appier Group 4,050万円、プラスアルファコンサルティング 3,480万円と続きます。ここで面白いのが、APEの上位企業全社に共通している点が、上場マーケットでSaaSの成長と利益のバランスを見る指標である「Rule of 40(成長率と利益率の和)」も大きい場合が多いのです。
ここ数年、Rule of 40が高いほど、PSRが高い相関が見られているため、結果として、APEが大きいとPSRも大きい傾向にあります。
ただし、ここで注意したいのは、APEは確かにRule of 40との相関がありますが、売上成長率とは全く相関がありません。従って、APEはSaaS企業の「成長性」を測るものではなく、あくまでも将来にわたっての「成長と利益のバランス」をとって事業運営するためのオペレーションに使える指標ということです。
ARR規模別で見た、従業員1人あたりARRからの示唆
それでは、もう一段深く見て、国内のSaaS企業ではARR規模が大きくなるに従って、APEはどのように連動していくのでしょうか?そして、アメリカと比較して、日本の成長効率はどれほど良いのでしょうか?
ARR規模別でのAPEの傾向を、下図にまとめました。アメリカのベンチマークについては原稿執筆時の為替水準(1米ドル150円)で換算しています。
この図からは、大きく2つのことがわかります。
1つ目は、ARR規模が大きくなるにつれ、APEも大きくなる傾向にあること。ただし、ARR150億円以上のSaaS企業では下がっていますが、このグループはラクス、マネーフォワード、freeeなどSMBフォーカスのSaaS企業群がメインにあります。他方でARR75〜150億円には、プラスアルファコンサルティング、セーフィー、プレイドなどエンタープライズでの導入実績も多数あるSaaS企業群がメインであることが影響していると考えられます。
2つ目は、アメリカと比較しても、日本は遜色ない成長効率があること。ARR7.5〜150億円のレンジでは、アメリカのベンチマークであるオレンジ枠にかかっており、アメリカ基準で見ても優れた水準を出せています。
ARR150億円以上では、アメリカ基準を下回っていますが、昨今の円安、日米の物価・人件費の差を踏まえると、実際にはそれほど悪くないと言えます。
実際に、2024年の日米の物価水準で補正をかけると、下図のようにどのARR規模でもアメリカより高い水準にあります。
これまで日本国内のSaaS上場企業におけるAPEの状況を見てきました。ただ、未上場のSaaSスタートアップにも同じ指標を用いる上では、いくつか注意点があります。
1つ目は、ARR1〜10億円程度のアーリーステージでは、日本の上場SaaS企業の水準であった「APE2,000万円」をベンチマークにすることはあまりお勧めしません。採用に踏み切れず、組織もプロダクトも成熟度が上がらないため、成長性を犠牲にすることになってしまいます。
私たちの感覚では、優れたSaaSスタートアップの水準でいうと、ARR1億円前後で、APEは500万円程度、ARR10億円前後でAPE1,000万円程度で、線形に増えていくイメージを持っています。
2つ目は、PMFを達成する前に、APEを見ることはあまり意味がありません。プロダクトによっては、AIやディープテックのような初期R&D投資が多くかかるケースもありますので、指標として意識しすぎると、投資不足でPMFまでの時間がかかりすぎてしまうのです。
3つ目は、組織拡大やセカンド・プロダクトへ投資をするタイミングでは、APEが一時的に小さくなることです。そして、小さくなっても気にしすぎないことも大切です。これらの投資は最終的にはAPEが成長投資前より大きくなることが期待されるので、着実に上昇してきているか定期的にチェックすることをお勧めします。
最後に、上場・未上場を問わず、共通した注意点が一つあるので付記します。ここでいう「従業員」には非正規雇用社員や外注の人数は含まれていません。例えば、開発の大部分を外注しているとAPEは高く出やすくなります。このように、確かにAPEは成長効率性の指標として優れている一方で、個社ごとに事業や組織の形態を考慮すべき場面もあります。より詳細に把握するためには、その他の財務指標との併用が現実的です。
以上、日本の「従業員1人あたりARR」のトレンドとベンチマークについての解説でした。ぜひ、採用計画作りや効率的な成長のための経営判断の仕組みづくりに、参考としていただければ嬉しいです。
※ 2024年6月21日更新:読者からのご指摘を踏まえ、一部の追記を行いました。
※ この記事は、有価証券報告書のデータを参照して制作しています。