SaaSスタートアップを支える「T2D3」という圧倒的な成長。その高成長を実現するためには、SaaSの世界を駆け抜けるための「戦略」が存在します。そこで、ALL STAR SAAS FUNDでは、全4回からなる短期集中型の連続講座を通じて、その戦略について多角的に考えていく機会をつくりました。
昨年度に引き続き開催する「ALL STAR SAAS BOOT CAMP」では、主にシードからアーリーフェーズの企業や、起業準備中のSaaS起業家へ、T2D3をハックするためのメソッドを見つけ出していきます。
課題を乗り越えてきたSaaS企業の現役経営陣とSaaSスタートアップの各成長フェーズを支援してきたALL STAR SAAS FUNDのメンバーが、実体験を元に各テーマについて解説。初回のテーマは「PMF」です。
SaaSにおけるPMFの達成確度を高めるために、「プロダクト開発」の観点から実践的な方法論を解説。第一回のゲストは、セールスイネーブルメントクラウドの「ナレッジワーク」を提供し、T2D3を超えるスピードで成長を遂げるナレッジワークCEOの麻野耕司さんです。
ALL STAR SAAS FUNDのSenior Partnerである湊雅之と共に、お客さまに愛されるプロダクトを届けるための、あるべき仕組みや組織を考えます。
(※この記事は、約1.5時間からなるセッションをテキスト化・再構成したものです)
日本の営業生産性を向上させるプロダクトを作ろう
湊:頭出しとして、SaaSのPMFについて考えるために、基本的な定義からはじめたいと思います。PMFという言葉は、ベンチマーク・キャピタル創業者のAndy Rachleff(アンディ・ラクレフ)さんが生み出したもので、「説得力のある価値仮説を特定すること」とされています。そして、PMFのためには、以下4つの要素が必要だと言われています。
1. お客さまのバーニングニーズが明確に理解されている
2. それを解決するための解決策が特定できている
3. その解決策をプロダクトとして形にできている
4. スケーラブルなビジネスモデルを持っている
これら全てが揃ってPMFなのですが、実際にはお客さまのニーズの把握や解決策の検証、価値の伝達など、多くの変数があり、ハードモードなプロセスをたどることになります。たとえば、解決策の検証を飛ばしてプロダクトを当てても刺さらない、プロダクトの価値はお客さまと合意できていても現場にそれが届かない、ビジネスモデルが重くスケールしにくい……といったことはよく聞きます。
そこで、麻野さんがナレッジワークで経験した、2年間にわたるPMFの舞台裏を今日は伺えればと思っています。まずは、ナレッジワークのプロダクトからご紹介いただけますか?
麻野:ナレッジワークは、日本企業の営業生産性を向上させるという課題に取り組んでいます。多くのデータが示すように、日本の営業生産性はグローバル基準と比べても非常に低い状態です。主な要因として、営業担当者の多くの時間が商談の準備に費やされており、実際の商談に使える時間が限られていることが挙げられます。ほとんどの会社が、商談準備に55%の時間を費やし、顧客との商談は10〜25%ほどといわれます。
つまり、商談準備の時間を少なくして、商談の時間を増やし、かつ商談の効果を高めれば、おのずと営業生産性は上がっていくだろう、という考えが僕たちの前提にあります。
ナレッジワークは「セールステック」と括られるプロダクトかとは思いますが、僕はセールステックの中でもジャンルを大きく2つに分けています。1つは「営業管理」で、主にはCRMやSFAなど、すでに非常に大きなマーケットがあるもの。もう1つは「営業支援」で、ナレッジワークはこちらに属します。「担当者の営業をいかに支援するか」という観点から、僕らは「セールスイネーブルメント」と呼んでいます。
実際のプロダクトは、営業担当者のサポートツールとして、高性能なポータルサイトのようなものだと捉えてください。現在は、営業資料や提案書などを瞬時に検索・利用できるようにすることで、営業の生産性を飛躍的に向上させられます。
また、ユーザビリティにはこだわりがあります。現状でも様々なファイルストレージのサービスがありますが、その多くは僕が社会人になった20年以上前からUI/UXに進化が見られません。フォルダをクリックし、ファイルが並んでいて、中身を見ようとしたらクリックして開く。違えばまた探し直す……という繰り返しです。
このUI/UXにナレッジワークは革新を起こして、カーソルを合わせるだけで中身が見られたり、高速でビューワーが開いたりなど、様々な部分を一新しています。結果として、無料トライアル期間も含めて3年強で、まだ1社しか解約されていませんので、顧客からも高い満足度を得ています。
今後は、ワークやラーニング、ピープルといった領域も含めたソフトウェアの開発を進め、より幅広いサービスを提供していく予定です。
抽象と具体を行き来しながら、プロダクトを練り上げた
湊:ありがとうございます。「ナレッジワーク」を初めて見たときに感じた「美しさ」や、サクサクと動くUIは確かに印象的でした。麻野さんがBtoB領域のサービスでもUI/UXの重要性を認識したきっかけや原体験は何でしたか?
麻野:実際には「重要だと思う」というより、それこそ僕がやりたかったことの一部だったんです。僕の目標は、業務体験を向上させるようなソフトウェアを作ることでしたから。
前職ではリンクアンドモチベーションというコンサルティング会社で、HRテックの領域でのSaaS立ち上げの経験がありました。HRは「働く人をすこし離れた場所から支援する」ような仕事だと感じていますが、僕自身はもっと働く人々の隣でサポートするようなソフトウェアを作ってみたいな、と思っていて。そこで、ワークウェアのような「ワークテック」の領域に挑戦して、ワークエクスペリエンスを良くするようなソフトウェアを作ろうとしたのが、創業当初の僕の思いでした。
前職でSaaSの立ち上げや、SaaS企業への投資も通じて感じていたことがあります。それは、BtoBのSaaSでは利用者と決裁者が異なるため、ユーザビリティが後回しにされがちだということ。決裁者は社内で説明しやすいように価格や多機能性を優先することが多いため、SaaS企業もそれに合わせてソフトウェアを作ると、どうしてもユーザビリティが犠牲になる。僕らはそこを乗り越えて、現場で働く人々のためのソフトウェアを提供したかったんです。
湊:PMFのアイデアの起点となった「セールスイネーブルメント」のコンセプトについて、ぜひ着想の経緯を教えていただけますか?
麻野:僕が考えるプロダクト作りの大事な点は、抽象と具体を行き来することだと思うんです。より言うと、社会課題といった抽象的なことと、顧客が持っている具体的な課題を行き来してみる。
僕がもともとずっと考えてきたテーマは、「労働は苦役である」という考えを打破することです。もう人類は数千年前から働くことに苦しみやつらさを覚えて、それに囚われながら働いている。でも、働くことで成長実感、貢献実感、達成実感をもっと得られれば、人々の生活が豊かになるはずだと信じています。
僕はマイケル・サンデルさんの『実力も運のうち』という本が好きです。「成功者の成果は本人の努力や才能によって生まれたのではなく、環境によって生まれている」と説かれています。環境によって人は大きく変わるけれども、実際にその格差は大きいままです。
会社の仕組みに格差があるせいで、努力すれば報われる人もいれば、全く報われないような人もたくさんいる。もし報われないなら、いずれ頑張ることさえ止めてしまうでしょう。世の中にもっと「努力すれば成果が出る」というイネーブルメントの機会を届けたいと思ったのが、僕が抽象的なところで考えていたことですね。
それと僕は前職で、組織診断をするSaaSを取り扱っていましたが、企業の規模感を問わず、ナレッジ共有のスコアが低い企業を多く見てきました。その課題を解決する方法はないかと考え、業務成果や人材能力の向上に焦点を当てる「イネーブルメント」というコンセプトを実現するソフトウェアを、まずはナレッジという切り口からスタートさせてみようという風に、抽象と具体を行き来しながら練り上げていったんです。
変革をもたらすソフトウェアには、いつも裏側に原理原則が働く
湊:コンセプトを形づくる際には、麻野さんの経験だけでなく、潜在顧客と対話をするようなこともあったのでしょうか?
麻野:僕は解決したい課題が見つかったら、ユーザーインタビューを重ねるよりも、徹底的にプロダクトの土台となるコンセプトやフレームワークを考え抜く時間を大切にしています。お客さまは様々な課題を抱えていますが、どうすればそれらが解決できるかを知っているわけではないので。
その上で、早めにプロダクトの商品紹介資料を作成し、顧客にご提案して、それに対してご意見を頂くようにしています。その段階では、お客さまとの対話をとても大切にしています。商品紹介資料を作る際には、どんなプロダクトが世の中に存在しているかをリサーチします。
湊:具体的に、どのようなプロダクトを調べたのでしょうか?
麻野:最初は、ナレッジマネージメントのシステムを開発しようと思っていました。でも、市場で売れるのか疑問を感じたんです。そこで、特定の職種に焦点を絞ることで、市場に受け入れられる可能性があると考えました。アメリカには「セールスイネーブルメント」という領域があり、セールス専門でサポートするツールが存在することを知りました。実際にユニコーン企業も生まれており、彼らがメインにしているのがナレッジ共有でもあった。なるほど、職種ごとに絞るのが効果的だと感じたのは、海外企業のリサーチをした結果でした。
営業という職種にフォーカスすれば、汎用的な職種に対してソフトウェアを提供しているMicrosoftやGoogleでも叶えられていない領域がありそうでしたし、さらにセールスイネーブルメントのツールを見ていくと、ナレッジだけじゃなくてラーニングなどを提供していることも見えてきた。原体験、僕が感じた課題、そして他社企業がミックスされながら、ナレッジワークのフレームワークが生まれていきましたね。
湊:そのフレームワークは明確ですね。このコンセプトの作成過程で、麻野さんは1人でこれを作成しましたか。それとも、チームの創業メンバーと共に作成しましたか?
麻野:アイデアは創業メンバーからも色々出してもらいましたが、最終的なフレームワークへの落とし込みは1人で考えました。僕はプロダクトの思想や構造がとても大事だと思っています。それらに対して、深く思考を通すことを大切にしています。大きな変革をもたらすソフトウェアには、裏側に原理原則が必要だと考えています。例えば、イーロンマスクがプロダクトを作成する際は、物理学の原則に基づいているといいます。原理原則に着目して、最終的にソフトウェアを作れると、ビッグショットになると思うんです。
ソフトウェアは手段であり、世の中のメカニズムを変えるためのツールです。どのようなメカニズムに変化させていくのかを見通せないと考えるのは難しいはずですが、多くのプロダクトが表層の要望ばかりに注目して作られていってしまい、深層の構造に目を向けていません。結果として、小さな改善はできても、大きな進歩に繋がるプロダクトにはならないことも多いのです。
BtoBプロダクトこそ、作る前に売れ
湊:コンセプトができてから、お客様の現実問題とすり合わせるフェーズもあったかと思います。どのようなターゲットに向けて動いていましたか?麻野さんのネットワークが広いことを考えると、知人にアイデアの壁打ちをしてもらったのでしょうか。
麻野:僕たちが新しいプロダクトを作る際は、4段階のプロセスで形にします。最初の段階は「カスタマー・プロブレム・フィット」、つまりは顧客の課題を特定することです。この段階で特に苦労することは少ないですね。何故なら、顧客に課題があるからこそプロダクトづくりがはじまっているので。例として、顧客が営業資料の共有に困っているのを知り、それを解決する方針を定めます。
次の段階は「プロブレム・ソリューション・フィット」です。僕のアプローチとしては、最初に自分自身の課題を解決するための提案書を作成します。ユーザーインタビューなどは行ないません。そして、作った提案書を購入してくれそうな会社を3社ほど思い浮かべます。
令和トラベルCEOの篠塚孝哉さんの教えによれば、マーケットリサーチよりも「身の回りの3人にそのプロダクトが欲しいかどうかを聞くこと」が重要だと。これは本当に僕もそうだと考えています。最初は仲のよい経営者に持ちかけて、3社とも乗り気で具体的な金額感も固まったなら開発をはじめますし、3社のうち1社しか興味を示さなかった場合は、提案書を見直します。この段階での目的は、課題の確認や価値の検証ですね。
特にBtoBの世界では、プロダクトを先に作成してから売りに行くと、失敗のリスクが高まります。売る前に十分なユーザビリティを確保することと、決裁者が実際に投資を決断することは、別の問題です。だから、僕たちはまず売りに出ることを重視しています。さらに身近な企業だけでなく、すぐには見込みのない大手企業にも提案を持っていきます。こうすることで、ミクロとマクロの双方から検証を行なうんです。
湊:価格の検証を初期段階で行なっているのが興味深いですね。通常、多くの人は価格を低く設定したり、無料にしたりすることを選ぶと思いますが、麻野さんの場合はどうでしたか?
麻野:価格の決め方には大きく3つの方法があります。バリューベース、マーケットベース、そしてコストベース。しかし、ソフトウェアの世界では、コストベースでの価格設定はほとんど行なわれません。基本は発揮できる価値(=バリュー)か、協業他社の設定(=マーケット)から考えるでしょう。僕らは、アメリカにはすでにセールスイネーブルメントの市場がありましたから、そこでのプレイヤーたちの価格設定を参考にしました。
湊:初期のユーザーには麻野さんの友人や知人も含まれていたかと思います。一方で、顧客からしっかりとしたコミットメントを得たいという気持ちもあるでしょう。端的に言うと、彼らからもお金をしっかりと取ることを重視した背景や理由を教えていただけますか?
麻野:まさに、それはすごく大事なんです。BtoBのソフトウェア業界で考えると、「便利さ」と「投資判断」の間にはギャップがあると感じます。多くのプロダクトマネージャーは、便利な製品を作ろうとしますが、それが必ずしも企業からの決裁や予算を得られるものであるとは限りません。だから、最初から「予算を取れる製品なのか」をしっかりと検証する必要があります。
BtoBの世界での「価値」とは、実際にお金を払ってもらえることです。もし、お金を払ってもらえない製品であれば、それは便利であっても「価値」を持つものではありません。この点をしっかりと理解することが重要です。スタートアップでは、たくさんのユーザーインタビューを経て製品を開発するものの、最終的にはお金をもらえないような事態もある。
ナレッジワークでアドバイザーも担ってもらっていますが、Fond創業者の福山太郎さんから助言を受けたこととして、「お金を払わないユーザーほど要望や指摘がすごく多いケースがある」と。そのようなユーザーの要望に振り回されるのは避けるべきでしょうね。
初期段階で社員を増やしすぎない。開発ドリブンな組織を築く
湊:プロダクト開発に着手することにした瞬間は?
麻野:いや、Day1からプロダクトは開発していました。
湊:そうだったんですね。では、プロダクト自体を一旦お客さまに出すかはさておき、まずは提案書だけで売りに行って、その間にも水面下で開発を?
麻野:僕は2019年の12月末に前職を辞めて、2020年4月に創業しました。最初にやったことは、2020年の1月に知り合いの会社3社ぐらいに企画書を持って提案に行ったことです。そして、それらの3社全てから「買いたい」と返事をもらったので、ピッチ資料を作り、投資を受けるために動き出しました。
湊:当時の開発チームの組織構成はどのようになっていましたか?
麻野:僕とプロダクトマネージャーで2020年1月からこの事業に取り組みはじめ、4月に創業しました。その3ヶ月の間に、僕たちを含めて7人の規模までチームを組成しました。具体的には、プロダクトオーナーの僕、プロダクトマネージャー、デザイナー、フロントエンドエンジニアが1人、バックエンドエンジニアが2人、そしてコーポレートが1人です。
湊:つまり、ビジネスサイド、特に市場へのアプローチやゴー・トゥ・マーケット戦略などを担当するチームは、実際には麻野さんだけだったということですね。
麻野:最初はそれでいいと思っています。1年以上は、僕1人で営業、導入支援、運用支援などを行なっていました。大切なのは、ソリューションとして提案書を作成し、実際に市場で受け入れられるかを検証することです。その後に、製品として具体化する開発に移るわけですが、この段階で人員を増やしすぎると組織が膨れ上がってしまうので、限られた人数で効率的に動くことが重要だと考えています。
ジェフ・ベゾスの「ピザ2枚のルール(1つのチームは、ピザ2枚を囲める人数以下にしなければならない)」の考え方などが参考になりました。それが最もスピーディですし、各々が責任感を持ちますからね。だからとにかく人を増やさないことを意識しました。
湊:初期段階での組織は、人数を絞りながら、開発ドリブンな組織体制にされていたと。
麻野:そうですね。まずはソリューションとしての製品が顧客のニーズにしっかりと応えられるかを確認すること。これができて初めてビジネスとしてスケールする意義が出てきます。
2年間のステルス開発を選んだ理由
湊:最初はクローズドβ版でサービスを提供されましたよね。その点で、2つ質問があります。まず、なぜオープンβではなく、クローズドβではじめたのか。そして、多くの人が悩むであろう、MVP(Minimum Viable Product)としてはクローズドMVPβ版でどこまで提供機能やユーザビリティを高める判断をしたのか、教えてください。
麻野:クローズドβ版でのリリースはこだわりのポイントでした。特に、このプロジェクトに2年間ステルスモードで取り組んでいました。その理由は、競争戦略に基づくものです。僕の興味は、既存のビジネスを単純にオンライン化やクラウド化するようなものではなく、まだ存在しない市場を自分でゼロから創出することにありました。
前職でも従業員のエンゲージメントを測るサービスを提供していましたが、当時はそういったサービスがSaaSとして伸びるとは考えられていませんでした。今回も、セールスイネーブルメントという新しい市場をターゲットとしています。僕の目的は、新しい市場を作り出すだけでなく、そのためのコンセプトやフレームワーク、方法論を築き、ソフトウェアと一緒に提供することです。僕はコンサルタント出身者として、それが得意でもありました。
新市場の開拓は狙いながらも、とても大変であることも理解しています。だからその分、非常に高いシェアを取りたいという気持ちもあります。実は、前職での「モチベーションクラウド」も50%を超えるシェアは取れたのですが、それでも競合が登場し、僕たちのアイデアが模倣されてしまったような経験もしました。その教訓から、今回は2年間ステルスモードで事業を進め、一気に攻めるタイミングまで進めることにしたんです。
SaaSビジネスの一般的な考え方として、PMFを達成するのに約2年(24ヶ月)が必要とされていますね。僕もそのタイムラインを参考に、2年間のステルス期間でプロジェクトをPMFさせることに決めました。「麻野さん、辞めて何やってんのかな?」って、きっと思われていたはずですが(笑)、とにかく出さないようにした。おそらく今から僕たちを追いかけるのは国内企業だと難しいはずです。それくらい圧倒的な差をつけられたと思います。
最後に、対外的なリリースのタイミングについては、ビジネスの性質によると思います。僕が当初から目指したのは、大手企業が使用する高単価なエンタープライズSaaSです。僕から見ると、日本の全ての企業が使うようなSaaSは、もう会計や労務くらいしかなく、そのマーケットはすでにない。ただ、「特定テーマ×高単価」ならば、まだマーケットがあると見ていました。
理想は、人事管理システムの「Workday」のように、上場時は顧客100社ほどでも1社あたりの年間平均単価が8,000万でした、といった形。最初からエンタープライズSaaSを前提にするなら、検証のために対外的にリリースする必要は全くなかったですから、一気にアクセルを踏むタイミングまではクローズドβ版で進行しようと決めていました。
「両翼」が揃ったとき、PMFを確信した
湊:クローズドβ版で、アクセルを踏むタイミングを決めたのはいつですか?
麻野:僕たちのコアターゲットに対して、ある程度の市場が取れると確信したときです。僕の経験では、製品が完成するよりも、クローズドβ版の時点で、大手メーカーが導入を決定したときに、この製品が成功すると確信しました。それまでIT企業の導入は多かったのですが、歴史の長い大手企業、中でも製造業に導入されるのかが気になっていました。そこで大手メーカーが決まったのは、製品リリースのタイミングが来たと感じました。
湊:大手企業の導入以外にも、何かしらの基準は持たれていましたか?
麻野:要素としては複合的ですね。1つにはSean Ellis Testという考え方があります。「この製品がなくなったらどう感じるか」という質問で、40%以上が「大変残念」と回答したらPMFとされる、という基準を重視していました。ただ、それは創業から1年もしないうちには達成していたんです。
他にもPMFの判断基準として、製品の利用頻度、利用満足度、そしてROIの検証結果を重視しました。商談時間の短縮やログイン回数など、実際の効果を検証した結果、ROIが高かったので、PMFを確信しました。
ただ、市場拡張と製品満足は両翼です。要は、それがどれぐらいの顧客にまで通用するのかが見えなかったのですが、製品満足の指標が「利用頻度、利用満足、利用効果」と全部出揃ってきたので、これなら問題ないと判断しました。さらに、IT業界だけではなく製造業や金融といった大きなマーケットにも導入実績を持って開かれていることが確認できましたから、PMFを果たしたと判断できたわけですね。
湊:クローズドβ版から正規版への過程で、予想外の事態や変更点はありましたか?特に、新しいプロセスを取り入れたり、お客さまの意見を取り入れすぎてしまうことなどの課題はなかったのでしょうか?
麻野: 実は、予想外の事態はあまり発生しませんでした。僕たちの開発スタイルは、製品を作成する前に、機能や価格設定をお客様と共有し、フィードバックを得るスタイル。そのため、開発後に「これは求められていない」となるケースは極力少なくしていました。だから、予想外の状況というのはほとんど発生していません。
初期にビジネスサイドをCEOが全て担うことのメリット
湊:リリース以降、オンボーディングの工数が多いのではと感じたのですが、実際どれくらいの時間がかかりましたか。そのときの体制についても、麻野さんが全てを担当していたのでしょうか?
麻野:はい、はじめは1人で全てのタスクをこなしていました。顧客から「このミーティングも麻野さんが担当するのですか?」なんて驚かれることもありましたが、僕しか担当者がいませんからね。ミーティングから決定事項のまとめ、それをメールで送信するまでの一連の流れまで担っていました。
僕たちのサービスはCS(カスタマーサクセス)が重要です。CSのプロセスがスムーズに進むように「導入の標準化」は大事にしているポイントですね。特に初期はプロダクトで全ての価値が担保できない分、CSに寄る部分が多いものです。そして、だんだんとCSに頼る部分を減らして、プロダクトの価値を大きくしていく。あくまでCSと合わせたサービスであることが大事だと思っています。
湊:なるほど。麻野さんとしては、創業者やCEOがビジネス系のバックグラウンドを持つ場合、セールスからCSまで全て自分で行なうことに重要性は感じるのでしょうか?
麻野:はい、最初は1人で全てを担当するのが最適だと思います。SaaSプロダクトはバリューチェーンが繋がり、営業、プロダクト、CSが連携して価値を提供する流れが重要です。多くの人で分担するほど連携が難しくなってしまう。最初ほど少ない人数で効率的に行なうことが、プロダクトづくりにも役立つし、PMFにも繋がると感じています。また、その後に人を採用する際にも、全てを担う経験は役立つでしょう。
湊:確かに、採用基準の高さがプロダクトのレベルやスピードに影響すると思います。その一方で、カルチャーやバリューフィットについての印象も強く、基準があるのではと感じています。
麻野:カルチャーに関しては、僕たちは行動指針としてスタイルを定め、それに沿って採用を行なっています。例えば、「Act for People」という指針は、自分だけでなく、顧客や同僚のために働くことを重視しています。SaaSビジネスは顧客志向が必要で、そのための行動指針が設定されています。さらに、多くの職種が連携して働くため、それぞれが効率的に連携することも求められますから。その顧客志向と連携志向をまとめて「Act for People」という言葉に落とし込んでいます。
他にも、僕たちのビジネスモデルに基づいた行動指針として「Be true」や「Craftsmanship」を掲げていますが、これを元に採用すれば、僕たちのプロダクトとかビジネスに最適化したカルチャーが作れる。そして、最適化されたアクションが生み出され続ける。結果として、ビジネスにも貢献する、という構図を作るようにしていますね。
Day1から取り組んだ「ブランド」づくり
湊:最後に、麻野さんだからこそ答えられるだろう質問をさせてください。最近、多くの起業家が「新しいカテゴリー」を作るようなチャレンジをしています。そして、そのカテゴリーを育てるためのブランド作りというキーワードも浮かび上がってきています。麻野さんが考えるブランド作りの構成要素は何ですか。また、いつから意識しはじめましたか?
麻野:ブランド作りに対する意識は創業時からです。ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』における独占についての考え方、特に技術的特権、規模の経済、ネットワーク効果、そしてブランドについての部分がとても印象的でした。
ブランドはBtoBの世界においても購買意思決定に大きな影響を与えています。例えば、外資系コンサルティングファームや特定のソフトウェアブランドが「強い」イメージを持たれているのは、そのブランドの力によるものだと感じています。
実際、強いブランドを持つソフトウェアだと、ユーザーははじめこそ「使いにくい」と感じても、「これを使いこなせない自分が悪いのではないか」と考え、一定で頑張って使い続けようとします。つまり、「使いやすさ=慣れている」ということでもあるわけです。そして、誰かが「使いやすい」と言えば、周囲もそれを見習って使い続けようとする……というサイクルが成り立ちます。
このようにブランドが持つ力は強力ですから、僕も最初から意識して、自らのビジネスに取り入れることを考えていました。本格的なブランド作りはまだまだこれからですが、力を入れて取り組んでいきたいポイントです。
湊:ブランド作りにおいて、創業時から重要視して取り組んでいたことは何ですか?
麻野:創業当初から重視してきたのは「ブランドのガイドライン」の確立です。デザイナーと連携して、それこそDay1からガイドラインの作成を進めました。初月にはすでに、ブランドパーソナリティ、ロゴ、そして「ジョイフル」「オープン」「シンプル」「エッジ」などのキーワードを元にしたガイドラインを確立していました。それ以外にも、さまざまなクリエイティブやプロダクトのガイドラインを作成し、その枠内で業務を進めています。ブランドのさらなる強化を目指し、直近でブランドディレクターを迎え入れる予定です。
湊:国内のSaaSビジネスにおいて、ブランド作りの重要性はどのように捉えられていますか?
麻野:僕の感覚では、日本のSaaS業界ではブランド作りが十分に重視されていないと感じています。多くはリード獲得のための施策に焦点を当てがちで、ブランド作りの重要性が見落とされる傾向にあります。しかし、外資系のSaaS大手企業は、ブランドの価値を非常に高く評価している。また、日本の大手企業もブランドを重視しているため、ここには大きなギャップと投資機会があると考えています。
湊:多くの起業家がPMFに向けて努力しています。その過程で麻野さんが重視する心構えや注意点など、ぜひメッセージをください。
麻野:偉そうに話せることはないのですが、実際に作り上げてみて、かなりの再現性を持たせられると思いました。今日、僕が話した内容は、自ら発明したことばかりではありません。世の中には多くの原則や法則があり、それらを深く理解し、実践することで、成功の再現性を得られると考えています。
僕がエジソンを尊敬するのも、彼が再現性のあるプロダクト作りに成功したからです。彼が生涯で1,300もの発明を手掛けられた理由は、再現性を手に入れられたからだと思うんです。ソフトウェアの領域でも、そういった再現性があるはずだと信じて、僕も頑張っています。